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「取り組む姿勢」は日本一

明豊戦で生還した佐々木大を拍手と笑顔で迎える花巻東ベンチ。劣勢にも全員で勝利を目指した
明豊戦で生還した佐々木大を拍手と笑顔で迎える花巻東ベンチ。劣勢にも全員で勝利を目指した
 花巻東ナインは試合中、凡打を放っても全力疾走で一塁を目指す。アウトのコールを聞いたとしてもひたむきに走り続け、駆け抜けるスピードが落ちることはない。

 準々決勝の明豊(大分)戦。四回無死一、二塁から菊池雄星(3年)が送りバントを仕掛け、ここでも全力疾走。一塁でベースカバーに入った二塁手と交錯した。延長十回には佐藤涼平(同)が菊池雄と同様に送りバントで一塁に向かい、野手と激突して頭部を強打。一時担架で医務室に運ばれる事態となった。

 それでも全力疾走をやめなかった。「試合に出たくても出られない部員がいる。全力疾走できる権利があるのにしないわけにはいかない」。二人はベンチに入れなかった部員の思いも込めて駆けていることを明かした。

 佐藤隆二郎(同)にとっては、全力疾走への思いはひときわ強い。センバツ決勝で、内野に高く飛球を上げた際に走ることを忘れ、練習から外されたこともあった。久々の先発となった2回戦の横浜隼人(神奈川)戦では凡打にも一心不乱に走り、敵失を誘って決勝打を呼び込んだ。「全力疾走っていいですね」。気恥ずかしそうに笑った。

 選手がいちずに打ち込むさまは、全力疾走に限ったことではない。劣勢にもベンチワーク良く笑顔で拍手しながら仲間を鼓舞し、アウトに終わった選手が戻った時にも、ハイタッチで出迎えた。得点した際には全員で体いっぱいに喜びを爆発させ、歓喜に沸いた。日本高野連の関係者から「はしゃぎ過ぎ」と注意を受け、ガッツポーズを控えることもあったが、ナインの内なる思いは変わることはなく、全員野球で勝利を目指した。

 その姿は、甲子園を訪れたファンの心を打った。明豊戦で佐藤涼が治療を終えて元気に走ってグラウンドに戻ると、大観衆はこの上ない温かな拍手で迎えた。「取り組む姿勢も日本一を」という花巻東のスタイルが認められた瞬間とも言えた。

 「菊池雄が万全ならば…」とはもはや言うまい。花巻東がこの夏の主役だったことは、誰の目にも明らかだった。春の忘れ物を手にすることはできなかったが、ナインが真摯(しんし)に取り組んできたことに間違いはなく、これから先の人生にとってもかけがえのない財産を得ることができたはずだ。

 練習後には選手と和やかに会話し、試合では勝利を共に喜び合い、敗戦には心の中で涙した。佐々木洋監督が「最高のチーム」とたたえたナインと同じ時間を共有できたことに、改めて感謝したい。花巻東が打ち立てた金字塔とそのひたむきな姿を、語り部として長く後世に伝えていくこととしよう。いつか岩手のチームが聖地の真ん中で深紅、あるいは紫紺の優勝旗を掲げる日が訪れることを心待ちにしながら-。(終わり、文中敬称略、報道部・北村亮)
「甲子園の風ってすごい」

練習前に円陣を組んで盛り上がる花巻東ナイン。取材を通じてさまざまな表情を見せてくれた
練習前に円陣を組んで盛り上がる花巻東ナイン。取材を通じてさまざまな表情を見せてくれた
 今回は番外編として、試合の前後や練習中に記者と交流する中で、紙面で伝えられることがなかった花巻東ナインのコメントを紹介する。大会期間中には笑いあり、涙ありで高校生らしいさわやかさやユニークな一面を披露してくれた。少しでも選手の人柄、内面に触れてもらえれば-。

 ◆まずはエースの菊池雄星(3年)。大会中には取材陣だけでなく多くのファンに囲まれ、外出中に声を掛けられることも多かったという。その中でも印象的な一言。「阪神で待ってるよ、って言われました」。ドラフトの目玉に挙げられる全国ナンバーワン左腕。阪神の1位指名候補と伝えられる中、虎ファンたちの切なる思いも垣間見えた。

 ◆続いてはムードメーカーの横倉怜武(同)。1回戦の長崎日大(長崎)戦の八回、背中に死球を受けた。逆転に一役買った形だが「ボールが当たる前に『いてぇ』って叫んでました」。その大きな声がチームを波に乗せた。

 ◆長崎日大戦で、走者一掃の二塁打で勝利に貢献した佐々木大樹(2年)は、左翼を守って3本塁打が頭上を越えるのを見詰めた。その印象を「甲子園の風ってすごいんだなと思いました」。相手打線について聞いたんだけれども…。

 ◆山田隼弥(同)は3回戦の東北(宮城)戦で放った左前適時打について「普通ならショートゴロ。何であんなに空いていたのか分かりません」。野手のいない所に打った技術に胸を張るべきだ。

 ◆準々決勝の明豊(大分)戦で初めて左翼に入り、浜風に流される打球を何とかランニングキャッチした齋藤奨(同)は、試合後にそのシーンを振り返りながら「今考えると、ぞっとします」。捕れなかったら失点は必至だっただけに、好プレーだった。

 ◆その明豊戦で、齋藤と同じく初登場となったのが柴田貴博(同)。八回1死一塁で代打で起用され、ベンチのサインはバントだったが「緊張し過ぎて、ロージンバッグを使うのを忘れていました」。それにもかかわらず役割はきっちりと果たし、好機を演出した。

 ◆続いても明豊戦。相手の今宮健太(同)の154キロの剛速球をファウルにした佐藤隆二郎(同)は「めちゃめちゃ速かったです。本当に」。それを当てたのだから、自慢してください。

 ◆準々決勝の中京大中京(愛知)戦で救援したものの、猛打を浴びた猿川拓朗(同)。もともと投球練習などは好きでなく「あれだけ打たれたら、ピッチャーはもういいです」。未練はない?

 ◆最後に佐々木洋監督。恩師との対戦となった横浜隼人(神奈川)戦を前に、学生時代を振り返りながら「先輩の命令には『はい』か『イエス』しかありませんでした」。体育会系の縦社会。先輩からの言葉は絶対だったようだ。(文中敬称略)
「日替わりヒーロー」躍動

東北戦で3点目のホームを踏んだ山田(中央)。柏葉、佐藤涼と共に機動力の中心を担った
東北戦で3点目のホームを踏んだ山田(中央)。柏葉、佐藤涼と共に機動力の中心を担った
 大黒柱の菊池雄星(3年)が背中の痛みもあって本調子から程遠い中、花巻東の準決勝進出の原動力となったのは、紛れもなく「弱い」と称され続けた打線だった。

 準優勝したセンバツでは菊池雄が投打にわたって大車輪の活躍。「日本一を果たせなかったのは貧打が原因」「雄星だけのチーム」とやゆもされた。

 投手が主体となるセンバツと異なり、夏に勝ち上がるには攻撃力のアップが欠かせない。練習メニューを打撃中心に切り替え、バットを振り込む時間を格段に増やした。捕手の千葉祐輔(同)も「センバツ後はとにかく打撃強化に取り組んできた」と振り返る日々。だが、岩手大会決勝では5安打2得点と打線が沈黙し、不安を抱えたままの甲子園入りとなった。

 しかし、迎えた1回戦の長崎日大(長崎)戦で、その不安は瞬く間に解消される。菊池雄が3本塁打を浴びるなど5失点する中、花巻東打線が目を覚ました。犠打や盗塁を絡めて徐々に追い上げると、八回に無死満塁から強打で先発を勝ち取った佐々木大樹(2年)が中堅手の頭上を大きく越える3点二塁打を放ち、逆転勝利をもぎ取った。佐々木洋監督は、菊池雄が打たれた衝撃を忘れたかのように「うれしいゲーム」と野手陣の奮起を喜んだ。

 さらに、準々決勝の明豊(大分)戦も「打線の勝利」と言える。4-6で迎えた九回に中軸の3連打で同点とすると、延長十回には不振が続いていた川村悠真主将(3年)が決勝打を放った。

 センバツの時から得意としていた機動力も威力を増していた。その象徴は3回戦の東北(宮城)戦で3点目を奪った場面。五回1死から9番山田隼弥(同)がバント安打で出塁すると、盗塁と悪送球で三塁へ。続く柏葉康貴(同)が強くゴロをたたき付けて山田を迎え入れるという「狙い通り」の得点を奪った。犠打や盗塁。自慢の機動力が広がりを見せた。

 佐藤涼平(同)や山田の粘り強さも見逃せない。2ストライクに追い込まれると、左手をバットの中央付近に添え、際どいボールをファウルにした。10球近く粘る場面も多々あり、相手投手を困惑させる一方でチームに勇気を与えた。

 今大会、川村主将や横倉怜武(同)ら野手陣が幾度となく口にした言葉がある。「雄星が不調なときこそ野手の出番」。指揮官の思いも同じで、センバツの時にはできなかったであろう試合展開を夏に実現してみせた。準々決勝までの4試合は「日替わりヒーロー」で、全員野球を体現した。

 「試合を経るごとに成長した。ここまで打てるようになるとは思ってもいなかった」と佐々木監督。大会が終わるころには、「雄星だけのチーム」と誰も語ることはなかった。(文中敬称略)
445球糧にさらなる高みへ

長崎日大戦で捕手の千葉と話す菊池雄(右)。大会中は背中の故障もあって苦しい投球が続いた
長崎日大戦で捕手の千葉と話す菊池雄(右)。大会中は背中の故障もあって苦しい投球が続いた
 全国ナンバーワン左腕として甲子園に乗り込んだ花巻東の菊池雄星(3年)だったが、その戦いはつらく苦しいものとなった。3度目の甲子園も涙で終わったが、打たれた悔しさで泣いた過去2度と今回は意味合いが違った。「投げられずに申し訳ない」。最後の試合はベンチで終わった。

 「最強モンスター」。あるテレビ番組ではこう称して菊池雄を持ち上げた。大会前から取材陣が殺到し、注目度は文句なしで一番だった。だが、大会前から背中の痛みが菊池雄をむしばんでいた。3本塁打を浴びた1回戦の長崎日大(長崎)戦では、本盗の際に相手捕手と激突したこともあり、試合後に「骨に異常があるかもしれない」と佐々木洋監督に訴え出た。

 痛みがあったのは、左腕側の肩甲骨付近。佐々木監督も選手時代に経験したといい「かなり痛いのは確か。投げる際に筋肉がブレーキをかけるように逆方向に引っ張られる」と分析。その痛みに伴うように、フォームも本来の姿を失っていた。

 2回戦の横浜隼人(神奈川)戦前日には「ナーバスになっている」(佐々木監督)との理由で、投球練習時には報道陣に球場の外に出るよう願い出た。恒例となっていた練習後のインタビューも見送られた。

 2回戦に勝利した後はさらに痛みが増したが、3回戦の東北(宮城)戦では前の2試合までとは別人のような投球を見せ、自己最速を更新する154キロ(球場表示)をマーク。「みちのくの剛腕」が復調したかに見えた。

 だが、快投はここまで。準々決勝の明豊(大分)戦では歩くのもままならないほどになり五回途中降板。それでも「チームを心配させたくない」と明るく振る舞い、指揮官の問いにも「行けます」。だが、体の痛みは周囲の予想をはるかに超えていた。準決勝の中京大中京(愛知)戦はわずか11球でマウンドを降りた。

 「全く違うのに、最強モンスターになろうとした。今のままの雄星でも十分抑えられるのに…」と佐々木監督。周囲の期待に応えようとして力んだ末の故障だった。そんなエースをチームメートは責めようとはしなかった。横倉怜武(同)は「雄星を中心にまとまっていた」、猿川拓朗(同)も「雄星がいたからこそここまで来られた」と感謝の言葉を口にした。

 ただ、痛みがある中で154キロをマークしたのも事実。「あの試合は力みが消えていた。力まずできるかどうかが一流と二流の違い」と佐々木監督が語るように、さらなる成長のきっかけにもなるだろう。

 「次のステージが待っている」と前を向いた菊池雄。最後の夏は不完全燃焼に終わったが、苦悩の中で投じた445球は今後の糧になるはず。「20年に1人の逸材」ともいわれる剛腕の進化は続く。(文中敬称略)
 第91回全国高校野球選手権大会(8月8~24日、兵庫県西宮市・阪神甲子園球場)で、本県代表として2年ぶり5度目、春夏連続で出場した花巻東は並み居る強豪を打ち破り、県勢90年ぶりの4強入りという歴史的快挙を成し遂げた。目標の日本一は果たせなかったものの、センバツの準優勝に続く好成績を残し、強さを実証した。春夏続けての花巻東の快進撃を監督、選手の証言を交えてひも解く。(5回続き、文中敬称略)

「監督を男に」 思いは一丸

横浜隼人戦で本塁打を放った柏葉から指をさされ苦笑する佐々木監督(右)。ナインとの固い結束が4強入りの原動力になった
横浜隼人戦で本塁打を放った柏葉から指をさされ苦笑する佐々木監督(右)。ナインとの固い結束が4強入りの原動力になった
 喧騒(けんそう)の中で始まった夏への挑戦。センバツ準優勝後の祝賀行事や取材が相次ぎ、チーム状態は上向く気配はなかったが、春の東北大会1回戦で青森第3代表の八戸西に敗れたことが、立ち直りのきっかけとなった。

 チーム内で話し合いを重ねた結果、たどり着いた結論。「甲子園で監督を胴上げしよう」。もともと、「野球選手を育てるのではなく、野球ができる立派な人間を育てる」をモットーとする佐々木洋監督を慕って花巻東入りを決めたナインも多く、その指揮官を男にするという思いでチームは一丸となった。

 1回戦の長崎日大(長崎)戦に勝利した後、粘投を終えた菊池雄星(3年)は「監督は夏にまだ勝っていない。1勝をプレゼントできて良かった」と佐々木監督への思いを真っ先に口にした。

 さらに、指揮官と選手のきずなの象徴とも言えたのが、2回戦の横浜隼人(神奈川)戦。佐々木監督がコーチを務めたことがある古巣で、敵将の水谷哲也監督が佐々木監督の仲人にも当たる「因縁の対決」となった。

 試合前、佐々木監督は「個人的にはいろいろな思いはあるが、やるのは生徒」と平常心を装ったが、決戦前日には柏葉康貴(同)や猿川拓朗(同)らと頭を突き合わせて「分かっているな。絶対に負けたくないから頼むぞ」と“懇願”。これに対して選手たちは「分かっています」と意気に感じて笑顔で返答した。

 円陣を組んで「監督のためにも勝つ」と声を張り上げて臨んだ一戦では、1-1の同点から柏葉が公式戦初となる本塁打を左翼席にたたき込んだ。殊勲の柏葉は三塁を回る際に「監督のために打った」と言わんばかりに指揮官を指さし、試合後には「監督の野球の素晴らしさを証明したかった」と胸を張った。当の佐々木監督は「本当にうれしかった」と目頭を熱くして喜んだ。

 準決勝で中京大中京(愛知)に敗れた後、佐藤涼平(同)は「監督を胴上げできなくて悔しい」と涙した。ほかの選手も同様だった。そんなナインを「最高のチーム」と佐々木監督はたたえた。

 春夏ともに目標とした全国制覇にはあと少し届かなかったが、指揮官と選手の信頼関係は、どのチームにも負けないほど固いものだった。