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新渡戸稲造の珍しい肖像画=岩手県農協中央会所蔵(作者不詳)
新渡戸稲造の和子夫人に対する話を続けよう。
「…一体人と交わるには弱点をはっきり心得て何か一つでもとり柄があれば、それによって親しみが深まるものであろうが、伯(新平)はいうにおよばず、否むしろ伯より以上にわが輩の失敗やら、短所やら面と向ってわが輩に語り、(和子夫人)あるいは面白をかしく他人にもよく話された。
ゆえにわが輩も、この夫婦に対して何の隠すこともしなかった。隠したとして彼等の慧眼がわが輩の薄っぺらを見通すであろうと思ったから、他人に語らぬことも、この二人には遠慮なく告げた。且秘密を告げてもわが輩には何の心配もなかった。
和子夫人は先にもいう如く聡明なうえに人情味が深く意思の強い人であった。
ゆえに人の性格を見るところがなかなか鋭かったから、度々わが輩に語られることもあったのは、『後藤はあの通り大ざっぱですから、誰にでもお交りをしておりますため、随分、望ましくない人も、周囲におりますので、これだけが誠に心配でなりません。
例えば某の如きは頭脳もよし、弁舌も爽やかですが、女の眼には偽物のように映ります。あなたはどういう観察ですか。』などという質問はしばしばあった。
夫人の名指しした怪しげな人は、早速伯に迷惑をかけた。
その代り一時伯の怒りに触れたものでも、夫人が『あの人はいい人なのに、何ゆえあんなにこの間面と向かって腹を立てたのか、気の毒でなりません。折があったら貴方からも説明して下さい』などということも、二度や三度のことでなかった。」
読者には後藤新平の性格を知る参考として記した次第である。
医師資格を得るまでに
後藤新平は初め福島県小学第一洋学校(明治六年五月二十二日)に入学したが、途中で辞め、故郷に戻る。
その後、明治七年二月二日に須賀川医学校に転じて生徒寮に入った。
医師を目指す後藤新平のスタートである。明治八年七月四日、福島県病院六等医生となり、医学校生徒取締り内舎副会長として月給三円を支給される。九月二日、五等医生を拝命して月給五円を支給される。この時期が医師としての修業(卒業)とみていいだろう。
明治九年二月二十二日、五等医生を依頼解職となり、三月二十八日には生徒寮内外舎長となる。月給八円を支給される。八月二十五日、愛知県病院三等医を拝命するが、ローレツ博士の指導を受ける。明治九年六月十五日から二十三日まで医術開業試験を受けて合格する。
明治十年八月八日、愛知県医学校四等訓導、同年九月三日、大阪陸軍臨時病院の傭医(日給六十銭)、明治十年九月十五日、この日付で医術開業免状下付。
後藤新平が医師資格を正式に得るまでの道程を記したが、明治十五(一八八二)年四月六日、岐阜で暴漢に襲われ、名古屋に名医がいると板垣周辺が聞いて、往診を求められ、新平が急行した。
板垣退助、会津藩に悟る
板垣退助は、官軍の将として東京から東北へ進み、会津藩境に入った時の所感を残している。
「ようやく、その境土に臨むや、あにはからん、一般の人民は妻子を伴い、家財を携えことごとく四方に遁逃して、一人来てわれに敵する者なきのみならず、ひるがえって、わが手足の用をなし、賃金をむさぼりて、てんとして恥じざるに至る。われ深くその奇観なるを感じ、いまだかつてふところにこれを忘れず…」
これには前段がある。板垣退助らが会津城を攻略し、藩主松平容保(かたもり)が妙周寺に退去するとき、警衛に当たった二川元助の陣地に会津の一農民が一かごの焼芋を持参し、藩主へ献上の手続きを依頼した。後日交代して本営に引き揚げた二川が、これを同僚に話して、奇特のいたりであると感嘆しているのを聞き、板垣退助は一人黙然として、やがて次のように感想を述べた。
「…兵を進めて会津に入らんとするに当たり、自らおもえらく、会津は天下屈指の雄藩にして政善に民富む。もし上下心を一にし、力をもって国に尽さば、わが三千未満の官軍、容易にこれを降さんや。よろしく、若松城下をもって墳墓となし、たおれて後ちやまんのみと。」
板垣は「百姓が領主に焼芋を献じた美談」を聞き、一座が嘆賞しておかないのを知り、はじめて悟るところがあった。
今、国が亡び、家破れ、君主が面縛して降服するとき、領民である農夫が一死もって国に酬いようとしないのはなぜであるのか。要するにその楽を共にしないものはその憂いを共にしないゆえんであって、会津藩がその国の亡ぶのにおよんでわずか三千の武士だけがこれに殉じ、農・工・商の民衆が逃げてしまってその国をかえりみないのは、この道理にほかならないのである。
板垣は後年語っている。「是を以て今日の策を断ずるに只だ他なし、四民均一の制を建て、楽を共にし、憂いを同ふせんのみ。而して後始めて百年の大計成るべき也。富強の基礎固かる可き也と。」(『史伝板垣退助』絲屋寿雄著から)
板垣退助が言いたいのは、民衆が藩主を支持せず、かえって官軍を支持したから三千の武士だけがいかに壮烈に戦っても、会津藩はついに官軍に勝てなかった、ということである。では住民の全部が国のために喜んで死ねるような体制をどうしたら作り出すことができるか。板垣にとって宿題となった。そのことは、やがて政治家を目指す後藤新平にとっても大きな課題となるが、新平の行動、実践を待ちたい。

自由民権運動の最高指導者板垣退助
岩倉具視が亡くなる約六か月前に会い、板垣退助が暴漢に襲われてその治療に急行する後藤新平をみて思うことがある。明治政府が米欧使節団を明治四年に差遣した時の全権大使、右大臣その人であり、帰国後、征韓論を主張した西郷隆盛、板垣退助らが敗れ、言ってみれば征韓反対派の岩倉具視、大久保利通らが政治の主流になるが、両派に後藤新平は存在感を印象付けた。殊に安場保和は岩倉、大久保に気脈を通ずる官僚であった。後藤新平は安場保和の二女和子と結婚し、医療行政官僚としての前途も開かれる。行政官として北里柴三郎と机を並べ、北里が後藤新平の給料が高いと上司に文句を言う。
新渡戸の後藤夫人回想録
新平の生涯にとって安場和子と結婚したことは最も誇れる出来事であったと思われる。新渡戸稲造は台湾総督府時代の和子夫人の回想録を偉人群像「後藤伯に対する和子夫人の内助」と題して書き、その人柄を高く評価している。
「後藤伯について語るものは和子夫人の功を見逃してはならぬ。和子夫人は明治の初期の官界に、その名を轟かした安場男爵の息女であった。そして後藤伯がまだ少年時代に、安場男爵が彼を見込んで、その娘を娶らした。
彼女は頗(すこぶ)る厳格な古武士的家庭に教育を受けて人となった。折々わが輩も親しく話を聞いたが、衣食に関する心掛け、身のたしなみ、言葉遣ひ、一部始終両親の直接監督の下に鍛へられたからあの喧しい後藤伯の夫人となっても、何の不足もなかった。
殊に彼女の耐忍の力の偉大なることはわが輩しばしば目撃したことである。それに日々の修養に心掛けられることは誰人も夫人に会った人の気がついたことであらう。
わが輩初めてこの夫人に紹介を得たのは、台湾赴任当時であった。台北に着(ちゃく)して数日ならずして、時の長官々邸に晩餐に招かれて、初めてこの人を知り得たが、その後一、二週間を経て、夫人が草花を非常に愛翫さるる由を聞いて、一日植物園に御夫婦を招いた。その節伯は例の通り大ざっぱな話のみで時を移したが、夫人は細かに熱帯植物の名やら、その性質、使用法について質(ただ)された。
その質問が單に好奇心のみでなく、真面目にして、且実用の考へより出ることが明らかであって、わが輩は彼女の頭脳の細やかなることに注意を惹かされた。
この時わが輩が彼女に如何なる印象を与えたかは、その後数年を経て、彼女の口から聞くことが出来た。」
和子夫人に対する新渡戸稲造の聡明談はなお続く。
「私は台湾に参りまして別に友達もなく、他に慰みも、また稽古をすることもなかったものですから、かねて草木が好きなためそれを幸ひ熱帯植物の名だの用途等を知りたいと思ひまして色んな方に伺ひましたが、御存じの方が少ないのに困ってをりました。ある時このことを主人に話しましたら、主人の申しますのに、もう少し待ってをれば新渡戸といふ農学博士が来るやうになってゐるから、さうすれば何でも解るといって慰めて呉れましたので、私は貴方の御赴任を待ってをりました…(以下略)」
新渡戸稲造と和子夫人との出会いとその感想記は面白い。
後藤新平の歩みと関連して今後も引用することにして板垣退助についてもう少し説明しておこう。
明治維新の指導者を知る
板垣退助は天保八(一八三七)年四月十七日、土佐の高知に生まれたが、明治維新では土佐藩革命派を代表して軍事、政治の両面で、重要な役割を演じた。維新後は自由民権運動の最高責任者として議会政治の確立のために東奔西走し、近代日本の民主化に貢献した。一八八一年、自由党を創設し、総理となる。翌年、岐阜に遊説の際に刺客に刺され「板垣死すとも自由は死せず」-は先に紹介した。
後藤新平は板垣退助を知ることによって、明治維新の指導者を理解する機会を得たのであろう。慶応三(一八六七)年の夏に薩摩、長州、土佐藩が討幕の密約を結んだことが契機となり、維新の動乱は成功に導かれた。
板垣は維新の功績によって、朝廷から永世禄千石を下賜されるとともに土佐藩は家老に昇格させて七百八十石に加増し、陸軍総督とした。明治三(一八七〇)年大参事に任命され、権大参事福岡孝弟と協力して藩政改革を試み、特に「土民平均の理」を掲げて、個人の平等を改革の核とした。三年後に高知に設立された立志社を中心に自由民権運動が板垣退助の志として引き継がれる。
明治十(一八七七)年二月、西南戦争が起こると、高知の立志社にも風雲に乗じようとする運動が激化した。立志社の幹部はことごとく逮捕された。こうした事件にもかかわらず、板垣は愛国社の再興をはかって遊説員を各地に派遣して同志を集め、明治十一(一八七八)年九月、第一回会議を大阪で開いた。
以後、愛国社は会議を重ね、明治十三(一八八〇)年三月、国会期成同盟と改称した。四月には片岡、河野広中を代表として、政府に国会開設要望書を提出した。政府はこれを拒否したが、時勢の推移と世論の激化に抗しきれず、翌年十月十二日には十年後を期して国会を開設する旨の詔勅が発せられた。
これを契機に十月十五日、国会期成同盟を母体とする自由党が組織された。板垣はその総理に就任し、各地を遊説中、明治十五(一八八二)年四月五日、岐阜で暴漢に襲われた。負傷で窮地を脱したが、後藤新平は、傷の手当てに尽くし、板垣退助の人となりを知り、医者から政治に開眼する機会ともなった。

左端が北里柴三郎、右端が後藤新平
新平は、明治十六(一八八三)年一月二十五日、内務省御用掛を拝命した。当時、内務省衛生局は、大学生の秀才を採用した。内務省衛生局には大学出の医者は暁の空の星ともいえるように少なかった。その中に後藤新平の姿は目立つ存在だったろう。
同じころ内務省衛生局に入ったのは新進の学士北里柴三郎である。新平は月給百円であった。北里柴三郎は七十円と少ない。見比べて北里は長与専斎衛生局長に抗議した。
北里、いわく「私は仮にも最高学府を出ています。後藤君は、福島あたりの、あやしげな医学校の速成課程を修了したにすぎないそうではないですか。私はどうしてそういう男の下風に立たねばならないのでしょう」
北里柴三郎は嘉永五(一八五二)年十二月二十日に肥後に生まれた。東京医学校(現東京大学医学部)卒業後、一八八五年から九一年までドイツに留学し、R・コッホの下で細菌学を学んだ。一八八九年に破傷風菌の純粋培養に成功し、毒素を抽出、これを兎に注射して血清に抗毒素をつくらせ、この血清を人に注射することによって破傷風を予防、治療するという破傷風の血清療法を九〇年十二月三日に発表した。これは世界の学界を驚嘆させた。帰国後、九二年に設立された伝染病所長に就任、九二年香港に出張して、腺ペスト菌を発見したが、評価されて一九〇八年、イギリス王立教会の名誉会員に選ばれた。一四年に政府は伝染病研究所を内務省所轄から文部省に移し、東京大学付属を決定したので、これに反対し所長を辞め、北里研究所を創立した。二四年男爵、慶応義塾大学に医学部を創設して医学教育に当たった。また、日本結核予防協会理事長として、結核撲滅に努めるなど日本の社会衛生の発展に力を尽くした(一九三一年六月十三日没)。
須賀川医学校に学んだ後藤新平であるが、内務省衛生局の職員からは、北里柴三郎のように不満を持つ者もいただろう。北里から抗議された内務省衛生局長長与専斎はどう答えたか。
学歴超えた、新平の報酬
長与専斎は天保九(一八三八)年八月二十八日、長崎に生まれた。肥前大村藩士。安政一(一八五四)年大阪に出て、日本洋医学の先駆者緒方洪庵の門に入る。蘭学、医学を修めたのち、長崎でオランダ医師M・ポンぺ、C・マンスフェルトから蘭医学を学び、長崎医学校学頭となる。明治四年、東京に出て内務省に入り欧米を回って医学教育、医事行政を視察、帰国後、種痘法を制定、牛痘腫継所を設置した。東京医学校長、元老院議官、晩年は貴族院議員となる。
北里柴三郎は後にドイツ留学で後藤新平とは留学仲間となる。だが、出会い当初の内務省衛生局では、後藤の月給は上で、北里とは格段の差があった。北里はこれに不満の声をあげて長与専斎にかみついた。
北里の抗議に、長与は相手が納得できるような回答ができなかった。
「後藤君は前任地の俸給が八十円だった。新しく招聘するときは、これまでの給与より高い額で来てもらうのが慣例なので百円にした。後藤君は名古屋では月給以外の収入が二、三百円あったという。今度、内務省に入るについては、本務に専念して、自宅開業のようなことは一切しない覚悟だという。彼にとっては大変な減収になるわけである。そういうことも考えてやる必要があろうかと思う」
「それはわかったが、私の月給七十円というのはわからない」と北里。
長与は「新しく学校を出た人の初任給は、官制で決まっている。みだりに変更はできない。実力があって、勤務に精励する人は昇給するから、もし君が真に大学出にふさわしい実績をあげるなら不均衡は是正されるだろう」
長与は北里をなだめ、不満はあろうがと、納得してもらった。
後藤新平は須賀川医学校の正則コースではなく「変則」という名の速成コースを二年間の修業というか、教育を受けたにすぎない。それなのに、就職してからの評判はよかった。速成コースだが、天性的な素質を持っていたからであろうか。実力は外科医としては抜群だった。
衛生局長代理を務めて
このころから後藤新平はすっきりした美男の本領に帰って、当世風の紳士に変容した。学者という空気を身辺に漂わせていた。
北里柴三郎の件が収まり、長与専斎局長から新平が呼ばれた。
話は「突然だが、熱海にいる岩倉具視右大臣閣下から、何かおたずねがあるとのことで私にすぐ来るようにとのことだが、私にはほかによんどころない用があるので、私の代理を務めてくれないか」であった。
長与専斎は、人物を見出して連れてきたという思いがあった。後藤新平を試してみようと考えて、代理派遣という手を使った。新平は人に認められ、抜擢されてやって来たことを顧みて、置かれた立場を理解できた。
長与命令では宮内省御用掛の肥田浜五郎の同行を求めていた。肥田は来ていなかった。新平は一人、岩倉公の泊まっている相模屋へ行き、面会を求めた。
女中が襖を開けると、地味な色合いの寝巻きかドテラだか、ありったけ着込んで、それでも寒そうにしている小柄な風采のあがらない老人がいた。明治四年、米欧視察団の団長岩倉具視その人である。随行員として参加し、サンフランシスコで一行から離脱して途中帰国したのは安場保和である。長与専斎は、視察団に随行することを嘆願して加わった経緯がある。
岩倉は新平と会って六カ月後の明治十六(一八八三)年七月二十日に死去した。享年五十九歳。
愛知県病院時代の新平にとって、おそらく衝撃的な事件ともいえるものはローレツ博士から言われた「近親者同士の結婚は不道徳だ」と忠告されたことであろう。それでも、父十右衛門は新平の母の実家である坂野家の娘ひでを嫁にもらうことで話を進めた。従兄妹同士の結婚になるわけだが、幼少の頃から顔なじみで、新平はひでとの結婚を当然のように思っていた。
坂野家、後藤家とも双方に問題があった。坂野家が初め新平とひでとの婚約を破棄しておきながら復活しようと計ったことである。曲折があって、縁談は復活した。
新平と坂野ひでとの結婚手続きは、婿出席がないまま明治十三年十一月に行われた。親の手元で結婚が進められた。明治十四年一月、十右衛門が急病との電報によって水沢に呼び寄せられ、自分の妻となるひでを見た。
それから一年後に新平は、彼女を離縁すると言い出した。十右衛門と新平との間にいざこざがあって、新平はひでとの離婚が実現する。
ここに至るまでには、ローレツ博士の「近親結婚」は不道徳という発言があったことが決定的要因になったと思わせられる。こうして新平は明治十六年九月、二十七歳の時に安場保和の二女和子と結婚した。和子は九歳若かった。安場保和と新平の信頼感がいかに強かったかを知ることができるであろう。新平と和子さんの結婚式の写真は実にいい=写真=。
暴漢が板垣退助を襲う
明治十三年三月、愛知県知事安場保和は、元老院議員に栄転して名古屋を去る。後藤新平と和子の結婚式を挙げる前の明治十四年九月だった。このころ、全国的に自由民権運動を展開しようと板垣退助は同志とともに土佐の高知を出た。藩閥政治の積弊に苦しんでいた住民は歓呼して板垣を迎えた。
十月、自由党は創立され、板垣は総理となった。自由党設立後、板垣は全国遊説の途に着いた。静岡、名古屋と遊説して明治十四年四月五日、岐阜に入った。岐阜市今小町の玉井屋旅館に一泊後、板垣一行は濃飛自由党懇親会会場に向かった。懇親会は午後三時から始まり聴衆は約三百人。地元の濃飛自由党役員岩田徳義の開会挨拶に続いて党員演説、板垣退助が立ち上がった。
板垣は「本日、諸君の御招待を得ましてこの懇親会の盛宴に連なることができたのは、光栄の至りです。天下国家のために尽くすところあらんと望んでおられようが、一言、平素の所懷を述べて歓迎のご好意に酬いたいと思う次第です。
世人は、自由党をめざして政府を転覆し、天皇の地位を危うくしようとする暴徒の集まりであるかのように言いふらしております。われわれは左様なことは、全く考えないのであります。願いはひとりひとりが、餓えることなく、こごえることなく、安らかに生を楽しむることができるように政治が行われることにあるのです」
板垣はおだやかで、政談演説というより学術講演に近かった。
「人間界の出来事は、しばしば天地自然の現象と同じ原理に支配されることがあります。たとえば天体の運行が遠心力と求心力の調和によって保たれることは、諸君御承知の通りですが、人間社会においても、同様のことが行われております。即ち天皇を中心とする求心力と、人民の自治を望む遠心力が均衡を保って、ここにはじめて円満なる政治が行なわれるのであります」
板垣はたくみに比喩をもちいながら立憲政治の本質を説き、演壇を立ち去った。
一時間にわたる演説を終えて、板垣が控え室へ戻ると随行の幹部、地元有志が演説に対する称賛と感嘆の声を上げた。板垣は「風邪気味なので一足先に失礼して…」と見送りを断った。そして一人玄関に出た。
板垣が歩き出したところへ横合いから飛び出した男があった。反射的に逃げ出そうとした。その瞬間、間近に迫った男が板垣の胸元へ短刀を突き立てた。
新平に往診要請が再三
閑話休題-。
「戦い終わって日が暮れて」-。昭和二十年八月十五日は、当時の人達にとってはそれぞれ思い出が多いだろう。翌二十一年四月、松岡修太郎京城帝国大学教授が、朝鮮から引き揚げて盛岡中学校の校長となった。
松岡校長の試みとして、外部から講師を呼び一種の“教養”大学講座を設けた。昭和二十三年二月、五年生を対象に開いたのは「騎士道」「新民法」「新渡戸稲造」の講座だった。講師は中村金雄、中川善之助、益富政助の三氏。中村さんはボクシングの世界チャンピオン、中川さんは東北大教授で民法の権威、益富さんはキリスト教鉄道青年協会の理事長だった。
内容は忘れた。中川教授が言ったことの一言が後藤新平に対するローレツ忠告とともに蘇った。中川教授が戦後の民法では結婚は両姓の合意で成立することになったと強調したことである。後藤新平は初め、親が言うように従兄妹結婚に踏み切った。その後に別れたが、ローレツ忠告に従ったものだろう。
話を元に戻そう。板垣退助から往診を求める電話がかかってくる。
後藤はやむを得ず岐阜へ電報を打って往診を断った。
岐阜からは再三電報があり、板垣の傷は肺にかかっている疑いもあると、強く往診を求められた。
新平はこうまでいわれては動かざるを得ない。板垣が企てていることが革命か反乱か知れないが、維新に功労のあった人である。再三懇望されて行かないという手はない。覚悟を決めて急に仕度を整え、明治十四年四月六日、夜中の三時ごろ名古屋を立った。
板垣が泊まっている玉井屋旅館へ着くと、上を下への大騒ぎだった。
板垣の部屋へ足を踏み入れた後藤新平は、大勢の視線を受けてたじろいだ。が、そこは新平である。板垣の枕頭に寄って「御負傷、御本望でしょう」といった。
「板垣死すとも自由は死せず」と板垣は言ったという。後年、新平は周辺を見回して環境の不潔さを目に留め、衛生が劣悪なのに「なにが自由か…」と言ったと伝えられている。いかにも新平らしい。ローレツに師事したことで、公衆衛生の重要性を学んだ新平ならではの発言である。