
相馬事件を克服する「後藤新平」
今回の衆院議員選挙は、戦後、一時期細川政権誕生があったが、実質的に初めて自民党政治が交代する意義がある。これから権力の交代劇が始まる。
後藤新平を書いて思うことは、明治維新を成し遂げた日本が、国際社会に乗り出す時期に内務省衛生局長として衛生行政をリードする役割を担っていたことだ。ドイツ留学を終えて帰朝し、伝染病研究所を北里柴三郎を所長に立ち上げたことは大きな功績であった。
囚われの身に一転する
新平が内務省衛生局長に就任してこれから仕事に本領を発揮するだろうと期待されていた時期に囚われの身になった。明治二十六(一八九三)年十一月である。場所は東京・鍛冶橋監獄である。四畳半ほどが一般房だが、一般房から隔絶された二畳の密室に閉じ込められた。ここは特殊な牢獄である。予審判事が取り調べに応じない被告を懲らしめるためにぶち込む監禁房である。
天井の低い独房は立ち上ることもできない。便器の猛烈な臭気が鼻を突く。密室の監禁は、凶悪犯も二、三日で音を上げる拷問である。だが、新平は、自由を奪われても節を曲げなかった。「潔白だ。やましいところがない」として壁に向かって座っている。
伊藤博文を初代首相とする内閣制度が始まって八年になり、国を統治する基本、根本原理「大日本帝国憲法」が発布されて四年、国民待望の帝国議会が発足して三年になる。
日本は維新後の内政の基礎を固め、悲願の「条約改正」の段取りに進む方向に差し掛かっていた。欧米諸国との不平等な条約を改め、外国製品の流入から国内産業を守る「関税自主権」を勝ち取り、「治外法権の裁判権撤廃」を認めさせることを達成して独立国家の形が成る。
このような日本国の状況下に新平は身を置いていた。「明治の青年」第一世代だったのである。期待も大きかったが、それを裏切る一大スキャンダル「相馬事件」に絡む誣告罪(ぶこくざい)の教唆容疑で逮捕された。換言すれば他人に刑罰を受けさせるべく嘘の訴えを起こそうと示唆したというものである。
新平は福島の旧相馬中村藩主・相馬誠胤(ともたね)(一八五二~九二年)の急死が発端となり、お家騒動に巻き込まれたのである。一度は政界の裏事情によって逮捕を免れたが、ついに縄付きとなって潮が引くように周囲から人が去って行った。
謎に満ちたスキャンダル
相馬事件は、謎に満ちた十年越しのスキャンダルである。
家督を十四歳で相続した相馬誠胤は、二十代前半に、精神病発症者として居室に幽閉された。これが相馬家の家務を担当する志賀直道(作家志賀直哉の祖父)らのお家乗っ取りの陰謀と疑った忠臣・錦織(にしごり)剛清(たけきよ)は、監禁罪で志賀直道らを告発して華族のお家騒動が始まった。
紹介状を持ち訪ねてきた錦織と会って、後藤新平は相馬誠胤を診察したという医師に病状を尋ねに行った。
新平も愛知県病院(現・名古屋大学医学部附属病院)の院長を務めた医師である。意見交換しようと出かけて行くと相手の様子がおかしい。問い詰めるとシドロモドロ。相手の医師は、誠胤を診療もせずに、相馬家に乞われるままに精神病の診断書を交付していたのである。
医療行政に携わる新平は烈火のように怒った。
新平は、精神病患者の処遇を監督する警視庁と交渉し、相馬誠胤を診断して正しい処置を講ずるように求めた。また、これを機に「瘋癲人監禁取締規制」を策定させた。警視庁は、この規則で私宅に精神病患者を鎖固する際には親族二人以上の署名に医師の診断書を添えて所轄の警察署に申請して許可を求めなければならないと決めた。
誠胤の私室監禁はひとまず解かれた。新平の興味は精神鑑定と裁判手続きに向けられていた。科学的な精神鑑定に対する関心から、新平は相馬事件の深みに落ち込む。
錦織には山師の性が見え隠れする。新平は彼を「忠義狂」と呼び、憐れんでいた。
錦織剛清と相馬家の訴訟合戦は、東京帝大教授の鑑定で誠胤は精神病と断定され、本郷から小石川に移転した東京府癲狂院(てんきょういん)(都立松沢病院の前身)へ入院させられる。錦織と彼の仲間は、明治二十(一八八七)年一月末、夜陰に紛れて癲狂院に侵入、熟睡していた相馬誠胤を連れ出し、そのまま人力車と馬車を乗り継ぎ麻布材木町(現・港区六本木)の新平宅に駆け込んだ。
新平は、夜中に担ぎ込まれた誠胤を問診、目元はぴくぴく痙攣しているが、応答はしっかりしており、窓に鉄格子の部屋に閉じ込める必要はないと確信した。他方、癲狂院から連絡を受けた警視庁は東京市内に「非常線」を張り、消えた誠胤を血相を変えて探し回った。
新平は、警察が「非常線」を敷く中を、警視庁に平然と出向き、物々しい捜索はどうしたことか。「誠胤」はわが家にいるぞと告げた。
応対に出た警視が腰を抜かさんばかりに驚いた。内務省の大官僚が拉致の手助けをしていたのだ。新平の女婿で秘書を務めた鶴見祐輔は全四巻の『後藤新平伝』を残している。そのやりとりを記しておこう。
「ああ知っていますとも…実は私の家にいますよ。」
伯(新平の略称のこと)はそう言って呵々と大笑いした。これにはさすがの村上(大警視)も飛び上がらんばかりに吃驚して、「それはほんとうですか」と詰め寄った。
「ほんとうです。私を縛ろうとするなら、今縛ってもよろしい。しかし、警視庁の探偵(刑事)が私がこうした(匿った)と言って来るまで黙って見ていらっしゃい。あなたの部下がどのくらいの働きをするか試験するいい機会ですぞ。」
新平は勝気だった。

福沢諭吉
福沢諭吉は、長与専斎が北里柴三郎の将来について心配しているのを聞き、助け舟を出した。「学問のすすめ」で福沢はこう言っている。
「そもそもわが国の人民が無気力な原因を推してみると、非常に長い間、全国の権力を政府が一手に握って軍備や学問から工業、商売に至るまで、世の中のどんな瑣末な仕事であっても、政府の息のかからないものはなかったことによる。人民はただ政府の命じるところに向って奔走するだけだったのだ」(68ページ)
北里に対する福沢の目はこのような考え方に基づくものであろう。昔から捨てる神あれば拾う神あり-と言われている。北里は福沢の応援を知り、そのような思いであったろう。後藤新平も成り行きを知っていたに違いない。長与専斎が潰れたといっても慶応義塾大学の塾長に後藤新平を推薦したことがあると前に書いた。決して実現が不可能ではないと長与は思っていただろう。
日本初の研究所が誕生
後藤新平は長与専斎から見いだされて出世街道を走った。磁石のような魅力を持っていた。北里柴三郎は、ドイツ留学を終えて帰朝したものの、居場所のないまま形だけの「月給取り」に甘んじていた。長与が衛生局長の座を後藤新平に譲ったのが、新平が中央で活躍する舞台になる。
長与専斎は「北里が念願の伝染病研究を続けられないので、やむをえず内務省の衛生技師をしている。あんなことを長くさせておくと折角の学問が錆びついてしまう…」
福沢は「研究所設置が反対者のために停滞しているとすれば誰かが力になってあげねばなるまい。幸い私は芝公園地内に土地を持っている。提供してささやかな研究室を建ててやってもいい」と長与に言った。
昨年十一月、岩手中央農協組合長藤尾東泉氏を団長に台湾大学薬学部に六人の使節団を送った。帰ってからの説明を受けて一番感じ入ったのは薬草によるガンの特効薬の開発を目指して研究に取り組んでいたということだった。岩手医大は矢巾町に薬学部を設けた。三年が経過しているが、「薬草から征ガンを」という時代を期待したい。
脇道にそれたが、研究の続行をできない北里柴三郎にとって福沢諭吉の支援発言は有難いことであったろう。福沢はこうも言った。「実験に使用する機械器具、薬品とか、いろいろなものが必要だろう。それらを全部賄ってあげられるかどうか。初めは不自由を我慢してもらっているうちに、何とかしてあげることができるかもしれない」
長与専斎がそのことを北里柴三郎に話をし、その後に福沢も北里に説明するという具合に進んだ。
明治二十六年一月にはさっそく建築に取りかかり、二階建て六室、建て坪三十数坪の本屋や付属の動物小屋が竣工した。これを聞いた実業家の森村市左衛門が千円を贈り、その他からも金品が贈られた。こうして日本で最初の伝染病研究所が産声を挙げた。
後藤新平の奮闘が実る
人間の知恵が進み学問や科学が栄え、精神的、物質的に人々の生活が豊かになることを文明という。「学問のすすめ」では「国の文明というものは、上の方、政府から起こるべきものではなく、下の方、人民から生まれるものでもない。必ずその中間から興って庶民に向かうべきところを示し、政府と並び立ってはじめて成功を期待すべきものだ」という。
北里柴三郎に対する着眼点はこの辺りにあったのだろう。伝染病研究所は建ったものの、規模は小さく施設も貧弱で、充分な研究を成し遂げることは難しかった。研究に一つの磁石を置いたことになるが、磁石にすぎなかった。
内務省衛生局に集う長与専斎、石黒忠悳、後藤新平らは、伝染病研究という事業は、やっぱり公的機関によって運営されるべきだと痛感して、北里柴三郎の研究所を内務省の外郭団体・大日本私立衛生会に引き継がせるように計画した。その相談を受けた福沢諭吉は「私はこの研究所を、自分の私有物と思っていない。北里君が研究を続けられないといって困っていると聞いたので、援助しようと思っていただけです。もし、私立衛生会という大きな組織で引き受け、北里君をして心おきなく研究に専念させてもらうなら、私としては何も言うことはない」
建物、地所、一切の施設を無償で私立衛生会へ貸与することを申し出た。伝染病研究所は正式に大日本私立衛生会の事業となった。
他方、東京大学では伝染病の学問的研究はどこまでも大学の責任で行われるべきものであると主張して、文部省の伝染病研究所設置案を議会へ提出した。この間における後藤新平の活躍ぶりは特に目覚ましかった。新平は各方面を奔走し、大学側の非を説き、衆議院に議席を持つ医者長谷川泰らと連携して大学側の研究所設置案を否決させると同時に、別に「伝染病研究所補助費」の建議案を提出して、満場一致で成立させた。
これによって、伝染病研究所は国庫から毎年一万五千円の補助を受け、建築費二万円で芝愛宕町にある内務省用地に新しく屋舎を建てることになった。初め福沢によって建てられた芝公園地内の屋舎とは比べものにならない壮麗なものが計画された。
ところが思わぬところから支障が起きた。伝染病に対して盲目的な恐怖心を抱く地元住民が設置反対運動を起こしたのである。彼等は演説会を開き、各方面に陳情し、反対の気勢を挙げた。
北里柴三郎は「敵の方があまりにも多すぎる」と沈うつに言う。紆余曲折を経て後藤新平は腹心の属官を呼び、絶対秘密を条件に伝染病研究所建設の工事現場にある立札に墨(すみ)を塗り帰って欲しいと伝えた。属官は納得のいかぬまま言われた通りにした。
地元民は墨を塗ったのは、反対派の急先鋒と信じて、手段を選ばぬやり方に反感を持ち運動から脱落し始めた。真の犯人は後藤新平である。伝染病研究所は間もなく完成し、北里柴三郎はその所長になった。
後藤新平がドイツ留学から帰った一年ばかりの間が最も得意の時代だった。
今、日本は「百年に一度」という不況のさ中にある。リーマン・ショックに揺れている。世界が同時不況に陥ったのは初めてのことではないだろうか。
後藤新平がドイツ留学に出かけたころの日本は不況と行政改革に直面していた。留学期間三年間の予定でドイツに行ったものの、手当を増額してもらわなければやっていけない。新平は局長長与専斎に増額要求をした。回答は手当増額拒否というものだった。それどころか年内には帰国準備せよとの内命だった。
新平は憤然と怒って辞表を送った。
長与専斎は腹心の石黒忠悳(ただのり)と相談した。石黒は「新平は衛生学の研究だけしかやっていない。臨床の腕は鈍っているだろう。専攻は専攻だから開業医としての使い道はない」「今や新平は、衛生行政では第一人者である。辞めさせる法はない」
石黒はさらに続ける。「引き留める以上、それなりの配慮を…」
長与専斎はそれを受けて「…考えていることがある」と答えた。
官制改革によって予算が削減され、衛生局長が勅任官から奏任官に格下げになり、年俸は三千六百円から二千五百円に減額された。長与専斎は勅任官(一等から二等)だった。奏任官(三等以下九等まで)を高等官と称していた。
長与は局長が奏任官となる官制改革が実現すると、給料は安くなる。官制改革はこういう形で長与に襲いかかり、局長を辞職する代わりに後藤新平を局長に推薦した。長与専斎の後藤新平に対応した知恵のある姿勢に感じ入る人は多いだろう。
後藤新平のドイツ留学は、不況、官制改革の中に在って、三十六歳で思いもつかぬ拾い物をする。この幸運は新平を引き立ててくれた長与専斎の引退によるものである。
長与に代わり新平が局長

ベルリン滞在中の長与専斎(明治5年『松香遺稿』より)
後藤新平は、明治二十五(一八九二)年五月二日にマルセイユを出港して、帰国の途に就いた。横浜に帰朝したのは六月十日である。十一月十七日には、長与専斎の推薦通りに内務省衛生局長に就任する。横浜港を出発したのは明治二十三年四月五日だった。
明治二十五年一月二十一日ドクトル試験に合格した。明治二十三年九月十九日に発行した「国家衛生原理」等が評価されてのものだった。ドクトル試験合格前に明治二十四年八月十日の万国衛生及び民勢会議に日本代表として出席もしている。
衛生局長となっても不思議でない実績を挙げている。長与専斎のお蔭であったろう。
後藤新平と前後して北里柴三郎も日本へ帰国した。北里は、後藤新平が二カ年の留学だったのに対して、六年もドイツにいた。留学中に北里柴三郎はコッホに愛されて細菌学者として一家を成しつつあるというところまで到達した。彼の願いもなお留学を続けたいということにあったが、政府側からみれば一流の細菌学者になってもらうことでなく、衛生学にも通ずる何でも屋に仕立てて、衛生行政の局に当たらせるためである。
福沢が不遇の北里を援助
その立場からみれば北里柴三郎は、国家に奉仕すべき官吏の任務を忘れ、実用と無関係の学問に没頭し、気ままにみえた。たまたま軍医森林太郎(鴎外)が北里に同情、彼をして研究に専念させることが国家のためになると説いた。これが救いとなった。
東京大学の有名教授が、脚気は伝染病と考え、原菌として脚気菌というものを発表した。
北里柴三郎はコッホの命で脚気菌について否定的な論文を発表した。これが東京大学の医師たちを刺激し、北里は生意気で独善的であると評判を立てられた。北里の方はコッホの弟子であるとの利点もあって国際的に有名になっていた。
ツベルクリンの薬効は、やがて、はっきりしないというのでコッホ並びに北里柴三郎に対する声望を低下させた。東京大学側は、二人に良い感情を持っていなかったので、チャンスもあった。
長与専斎や後藤新平はというと、北里を中心にして一大病院、伝染病機関を設立すべく構想を練っていた。大学派は内務省衛生局との対立が露骨になり、構想は停滞した。北里柴三郎が帰国したのは後藤新平が帰って、内務省衛生局長になって間もなくだった。
北里は、東京大学医科大学長の大沢謙二の訪問を受けた。大沢は「…貴君の輝かしい業績は、日本人の名声を世界に示したものであり、ひとつ最新の知識を持って大学の講演に立ち、後進の指導に当たってくれませんか」
北里はこう言った。「御厚意は有難いが、私は大学の諸先生とうまく折り合ってゆけそうもありません」
医科大学長大沢謙二は失望して帰った。北里は帰国早々から寂しい思いをしなければならなかった。六年振りに帰国しても居心地のいい場所は見出せない。結局、帰国して半年目で月給八十円の衛生技師となった。世界的学者にふさわしい地位ではなかった。
長与専斎は、北里柴三郎が悶々とした日々を送っている中、福沢諭吉の自宅を訪れた。長与は第一議会の後、衛生局長を後藤新平に譲って官界を去り、中央衛生会長として医学会ににらみを利かせていた。
福沢諭吉宅を訪ね、ツベルクリン問題であれはどうなっているか-と問われた。
福沢は「そういう世界的な学者を遊ばせておくのは国家にとって大きな損失…」「どうだろう、その仕事は私に援助させてくれないか」
長与専斎は、福沢の「反対者のために計画が停頓しているとすれば誰かが力になってあげねばなるまい」の言葉に北里柴三郎も救われ、新平も同様だろうと思ったに違いない。
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明治43年当時の北里柴三郎(『北里柴三郎伝』より)
ベルリンを訪ねた後藤新平は、北里柴三郎の案内を受ける。戦前の日本人にとって大敵は結核だった。ロベルト・コッホは新平がベルリンを訪れる数年前に結核菌、コレラ菌を発見し、新平が留学したころにツベルクリンを創製して、国際的に名声が高かった。
北里柴三郎はコッホの指導のもとに破傷風菌の純粋培養に成功し、これまた国際的に有名になっていた。コッホの研究所には日本の若い軍医森林太郎(鴎外)が学んだことがある。
ベルリン大学は冷戦時代、東ベルリンに位置し、名称もフンボルト大学と言っていた。冷戦体制が崩壊して一周年に訪ねたことがある。暗い大学という印象しかない。フンボルト大学は鴎外記念館を旧東ベルリンに別に持っていた。日本語の上手な館長が案内してくれたが、東西ドイツが統合して鴎外記念館へ助手が派遣されたが、月給が三倍だったことに驚いたと言っていたことが忘れられない。
指導者コッホは新平に対して、「中央衛生院に入って生きた制度や今後の方向を学ぶ方が有益だろう。一般衛生学、細菌学、衛生化学等を実習することが大切であろう」。これが新平に対するコッホの考えだった。
「同僚の北里君は立派な細菌学者で、北里君の研究室に入って指導を受けたらいい」ともコッホは言った。
新平は「北里君は役所では後輩に当たる。学問の上では及ばないと思っていた。今日以降、改めて北里君の指導を仰ぎたい」と応じた。新平の謙遜な態度は、北里との間にわだかまっていた悪感情を吹き飛ばして以後、二人は親友となった。
留学することの効果というべきであろうか、北里が伝染病研究所をめぐって大学と対立したとき、新平は彼の味方となって戦った。ベルリンの友誼であろう。
留学時代の新平の生活は楽ではなかった。新平はあまりドイツ人と交わろうとしなかった。
ドクトルの称号を得る
新平がドイツ留学に向けて出発するに当たり、衛生局長長与専斎から頼まれたことがある。長与の長男が医学研究のためドイツ留学していたが、ドイツ人女性と同棲し、帰国しない。
長与が言うには「息子の称吉がドイツ女性と恋仲となり、手紙を出したぐらいでは言うことを聞かない。新平君、女と別れて早く帰るように説得してくれないか」というのである。
長与専斎の息子称吉は女性とミュンヘンに愛の巣を営んでいた。新平はミュンヘンに乗り込んだ。大抵、別れさせられないだろうとみていた。新平はドイツ語が下手だったから交渉役は務まらないとみられていた。ところが首尾よく二人を別れさせ、称吉を日本へ戻らせた。そこに至るまで、新平は筆談によって両者の疑念を残すことなくまとめたという。
長与称吉は東京へ帰り、後藤象二郎の娘と結婚し、長与病院を開業して一族繁栄の基礎を固めた。
後藤新平は留学三年目の明治二十五年一月、ミュンヘン大学のドクトル試験に及第して、ドクトル・メジチーネの称号を得た。田舎の医学出の新平はこれで馬鹿にされないで済むと自信を得るとともに、長与専斎は目を付けて新平を育てた甲斐があったと思ったことだろう。提出した論文は彼が留学する前年に日本で出版した「国家衛生原理」の内容を要約したものだった。
これははじめから意図したわけでなく既に博士論文を書いておいたというべきであろう。ドクトルの称号を得ても、彼は得意そうに吹聴して歩くでもなく、祝賀会を開くでもなかった。彼がドクトルになったことを知らなかった。長年の間、学歴(学力ではない)の点で引け目を感じていた彼は、はじめて人を追い越した喜びを味わっていた。
目指すは“国家の医者”
後藤新平がドイツ留学中、鉄血宰相と称されたビスマルクが引退して、新皇帝にウィルヘルム二世が誕生した。ビスマルクの声望はウィルヘルムをしのぎ、ビスマルクの樹立した富国強兵策は、なおドイツの指導原理となっていた。後藤新平はビスマルクに深く傾倒して、人物と治績を研究して帰国した。
新平にとって、国家とは一個の巨大な有機体で、政治とは、国家の健康を保つことだった。ビスマルクの富国強兵策の指導原理に引きつけられていった。新平のドイツ留学は、医者から政治へと開眼するものとなった。
一国の運命を憂える政治家こそ自らの運命だと自覚することになる。目指すところは国家の医者たれであった。
そのためにも勉強しなければならぬことが限りなくあった。衛生制度を研究するには専門の医学はもとより政治、経済全般にわたり知識を求めなければならない。
金はいくらあっても及ばない。新平は意を決し、長与専斎に向こう二カ年間、年に八百円ずつ支給されるようにと手紙を書いた。
新平の要求に長与専斎は彼の希望をかなえてやろうと石黒忠悳(ただのり)に相談した。が、政府は大変な難局に立っていた。留学生の手当増額どころか彼らをクビにして帰国させねばならぬ事態に迫られていた。新平がドイツに着いたのは憲法が発布された年の十一月で帝国議会が開かれた。
政府はこの議会に多額の軍事予算案を提出したが、圧倒的多数を占める野党は、これを大幅に削減し、国民生活を第一とすべしと主張した。改進党の尾崎行雄などは諸外国に派遣されている公使は無能者が多い。十人のうち二、三人残して引き揚げさせ、海外留学生は全廃せよと演説した。