愛宕の丘にあった藤沢高校(丘の上部の建物)。左下に現在と同じ役場庁舎が見えるが、周囲の景色は大きく変わっている=「藤沢高校50年史」より
愛宕の丘にあった藤沢高校(丘の上部の建物)。左下に現在と同じ役場庁舎が見えるが、周囲の景色は大きく変わっている=「藤沢高校50年史」より
 藤沢町の県立藤沢高校は県立千厩高校=一関市千厩町=との統合に伴い3月で閉校、57年の歴史に名実共に幕を下ろす。同校は1日、最後の卒業証書授与式に併せて閉校式典を開き、同窓生や地域の関係者が学びやの足跡を振り返り、校史の終幕を見届けた。戦後の農村に希望の灯をともし、町内、県内外に5495人の人材を輩出した「藤高」の歴史をたどる。

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 藤沢高は昭和二十三年創設の千厩高藤沢分校が前身で、二十五年に定時制課程の独立校として創立した。「藤沢高校五十年史」(平成十三年発行)は「(千厩高校藤沢分校設置の報は)勤労青年や少年志願兵帰りの若者たちにとってまさに一条の光明にほかならなかった」と地域の喜びようを記している。第一期入学生は六十五人。「親に隠れて願書を出した者もおり、服装は国民服に戦闘帽、無帽、あるいは学生服に学帽と種々雑多。雨の日は、みの、すげがさで登校し、みんなを驚かせた豪傑もあった」(創立五十年史)という。また、当時は職員も専任は二人だけで、本校や外部などの講師が支援していたという。

 二十五年の独立後、二十六年に全日制課程普通科を開設。しかし、藤沢小学校の校舎の一部を“間借り”して授業を行っており、生徒たちは相当の不便を強いられた。

 二十八年から藤沢高の講師として書道を教えた及川薫さん(88)=藤沢町=はもともと、同校が間借りしていた藤沢小に勤務。“同じ屋根の下”にいた縁で高校と行き来し、後に講師を務めることになった。

 縄文ホールで一日行われた閉校式典に出席した及川さんは「父兄の協力をもらい署名を集めたりして、一日も早く開校(独立)しようと努力していたのが忘れられない。学校をつくった当時のことを思うと、閉校は一層感慨深いね」としみじみと当時の思い出を語った。

 「愛宕の丘に輝ける学びの園の高校よ」と校歌に歌われた愛宕の丘に待望の独立校舎が完成したのは二十八年のこと。

 独立校舎は山の中腹を削った敷地に建築した木造二階建てで、建物、校庭、通学路とも決して十分なものではなかったというが、生徒や職員、関係者の願いが晴れて実現、校庭や通学路の整備は全校が一丸となって汗を流したといい、今も特に愛着を持つ同窓生は多い。