

奥州市水沢区吉小路にある後藤新平旧宅
水沢藩は仙台藩の支藩で城主は留守氏である。仙台藩とともに朝敵に回った。明治維新が終わって水沢藩は胆沢県となり水沢城に県庁が置かれた。
新任の胆沢県権知事武田亀三郎一行が水沢に乗り込んだのは明治二年である。一行がやってくる様子はすべて大名の格式だったという。水沢城はそれまで藩主の居館だった。その建物に新しく武田権知事が住み、他の役人は周囲に建てられた官舎で暮らした。
県庁の役人はすべて薩長派系ばかりだった。地元の“水沢弁”が理解できないため、地元の少年四、五人を給仕として採用することになった。
そのうちの一人に後藤新平がいた。斎藤富五郎(のちの実)も一緒だった。斎藤実は総理大臣、海軍大将、子爵となったが昭和に入って「二・二六事件」の犠牲者になった。新平は斎藤実の一歳上で、子供のころは気力、体力も斎藤を圧倒し、いじめてばかりいたという。
胆沢県庁の給仕は役人の末端に連なっているというので、彼らは廃刀令(明治九年公布)がまだ出ていないこともあって刀を差すことを許された。彼等は大勢の中から選ばれた秀才、刀を差すことは威厳を持たせ、喜びにわくわくしながら刀を差して歩き回った。
運命的な出会い
後藤新平が担当させられたのは、安場保和大参事である。安場保和は快活で物にこだわらぬ性格だった。安場保和は開国論で知られる横井小楠の塾で学んだことがあって、高野長英を尊敬していた。後藤新平の大伯父が長英であり、安場保和の給仕になったことに新平は親しみをもった。安場保和-横井小楠-高野長英という流れを通じて胆沢県庁給仕役目に新平は縁を思ったことであろう。
安場保和は新平に向かって「高野長英の子孫なら、大いに勉強して、お国の役に立つ人物になってほしい」と励ました。明治維新後、四民平等の時代になり、藩政時代のような身分制度がなくなったことの意義を新平は安場保和から身近に教えられた。
安場保和の家庭は女ばかりの家族だった。保和の母堂久子は当時六十三歳。あるとき、大久保利通が訪ねてきたが、保和は留守で、久子と話し込んで「ただならぬ女性とお見受けした」と語って帰った。岩倉具視公も安場家を訪れると、まず久子に敬意を表したという。
大久保利通、岩倉具視はのちに安場保和に関係してくる。この件については後述する。久子が安場へ嫁ぐにあたっては縁談が二つあった。一つは近在の大金持ちの庄屋の息子、もう一つは安場源右衛門だった。彼女は貧乏でも侍の方がいいと安場源右衛門(保和の父)のところへやってきた。
朝敵呼ばわりに激高
後藤新平が上京したのは明治四年二月である。同年八月には新渡戸稲造が東京に向かい、原敬が上京したのはこの年の十二月である。明治四年は維新後の日本を背負う先人が旅立った年として忘れられない。日本の国造りのために大奮闘するからである。
明治三年十月、後藤新平の恩人安場保和が熊本県大参事試補を命ぜられ、転出した。嘉悦と安場は横井小楠塾で兄弟同様に勉強していた仲間である。
嘉悦氏房は横井小楠塾で農業を学び、水沢に来てからは特に農事改良に力を尽くした。育英にも関心を持っていた。明治の女子教育の先覚者嘉悦孝子はその娘である。
さて、後藤新平である。安場、嘉悦の二人に目をかけられ、功名心を燃やし、東京へ出て出世の機会をつかみたいと志していた頃の明治四年二月、嘉悦氏房大参事が上京することになった。
後藤新平はこの時とばかりに嘉悦に随行を申し出た。新平十五歳。
嘉悦氏房は快諾し、友人太政官小吏荘村省三の玄関番に新平を斡旋した。だが、荘村は安場保和のように新平の才能を評価しなかった。それに合わせるかのように、安場保和が岩倉具視(右大臣・公家)を特命全権大使とする欧米視察団の派遣一行に随員として加わることになり、東京へ出てきたものの新平は安場から離れることとなった。
荘村省三は嘉悦氏房と同郷の肥後藩士で維新の時は西郷隆盛、大隈重信の下で働いた功で今の地位に就いた。荘村家に住み込むことが出世の第一段階にみえた。
しかし、荘村家の玄関番になって体験したのは、拭き掃除、水汲み、炊事、来客の使い走り、雑多な用事を立て続けにさせられ、新平は読書する時間など持てなかった。荘村家の女中の分担だった仕事が、新平の方へ回ってきた。
女中の補充もなく、荘村家にいても先の見込みがないように新平には思えてくるようになった。女中が留守の日、来客があった。
荘村省三が新平を紹介するに当たって「この書生は奥州の山奥から出てきた者ですが、東京は人殺しの多いところだと言って驚いているのです。なにしろ、こいつは奥羽の朝敵の子ですから…」と話した途端に「朝敵の子とは何事か、東北人はいつまでもその負い目を背負って歩まねばならぬのか-」と新平は憤慨した。膝を進めると「先生(荘村)に申し上げます。先生はただ今、朝敵という言葉を使いましたが、不謹慎ではございませんか」荘村も「不謹慎とは何だ」「お客様の前でみだりに人を朝敵呼ばわりされることこそ無礼だろうと思います」。
新平は荘村家での朝敵論争をきっかけに故郷へ戻る覚悟をした。