現代語訳の「学問のすすめ」(ちくま新書)
現代語訳の「学問のすすめ」(ちくま新書)
 後藤新平が東京に出て「朝敵論争」で喧嘩をして郷里水沢に帰ってきたが、そのころ明治初年の詔勅、御誓文等の類(たぐい)を見ると維新などという言葉は、ほとんど使われていないようだ(『幕末史』半藤一利著)。革命で徳川家を倒したものの、民草はやがて薩長が衝突し、諸藩が再び動き、天下をあげての大乱となることを予測していた。狂歌がある。

 上からは明治などといふけれど 治まるめい(明治)と下からは読む

 後藤新平の血にはそれが流れていて、朝敵論が出た時、主人に向かって「それはないだろう」と開き直って古里に帰った。父十右衛門は新平を迎えて、新平の心情をどう思ったか。

暴れん坊の少年

 安場保和(やすばやすかず)が岩倉使節団の随行員から外れて日本へ戻り、福島県令に任命されたことは先に紹介した。安場は県令になって、胆沢県大参事時代に新平を下宿させて世話をしていた岡田光裕(阿川と改名)を福島県に呼び寄せ、須賀川支庁勤務の職に就かせた。阿川光裕は、新平の父十右衛門に手紙を出した。「令息をこのまま片田舎に埋もれさせるのは誠に惜しい。福島県では、須賀川に医学校を設立し、生徒を募集している。令息を将来、医者にしてはどうか」とあった。

 新平にはもっと大きな志があった。人の病を治すより、国家の病を治す人物になりたいという気宇である。維新の元勲の功業を少年のころから見て成長した彼にとって国運を双肩に担って、天下に号令することこそ男子の本懐、他のことは一生を捧げるに値しない閑事業である。そう思いつつも阿川光裕には恩がある。その裏には安場保和が構えていると知る。“申し出”を受けなければなるまいと考える新平は、阿川光裕に手紙を出した。

 阿川の返書は「医者になれ」であった。それはまた父十右衛門の意思でもあったろう。こうして新平は福島県須賀川支庁官舎に阿川光裕を訪ねた。

 阿川は新平に「医学をする決心はついたのか」と尋ね、新平は決心した-と答えた。

 後藤新平は日本の「羅針盤」といわれるが、少年のころの新平は暴れん坊と言われている。しかし、単なる“きかん坊”ではない。理不尽な他人の言には、断固とした姿勢で応ずることが大事であると教えているのが彼の性格だ。

緒方洪庵と「学問のすすめ」

 須賀川医学校の教育は「正則」と「変則」の区別があった。正則は教科書に英語の原書を用い、変則は翻訳書を使用するものを言った。明治の教養人は英語がうまかったと聞かされたことがある。このような制度があったからだろう。

 それだけに正則の修業には長い年月と多額の費用がかかるが、一度修得した技術は応用が出来、深い専門の研究に進むことが可能だった。

 変則は速成なだけに、与えられた知識の外に出ることができず、医者ならば風邪を治す診断ができる医者がせいぜいと言われた。

 阿川にどっちの道を選ぶかと新平は聞かれて「正則の課程で心ゆくまで研究したいと思いますが」「それが本当だな。学問を志す以上、そこまで徹底するべきだ」

 新平は十七歳、頭に浮かんだのは高野長英か、緒方洪庵か。高野長英ではなく緒方洪庵であろう。高野長英は親族として知られている。天下国家を治める「医師」を目指すつもりならば、緒方洪庵を目指す新平を想像する。

 緒方洪庵は一八一〇(文化七)年七月十四日備中足守出身、一八六三(文久三)年六月十日に江戸で没した、江戸時代の代表的蘭学者である。十七歳で大阪に出る。その後、江戸に出て坪井信道に学ぶ。さらに長崎に行き、蘭医から直接蘭学を学び、二十九歳で大阪に戻り開業した。

 蘭医としての名声が高まるとともに全国から患者、教えを乞う者が大阪に集まり、大阪の河原口に適々斎塾を開き後進の教育に当たった。

 門下生が一千人を超え、その中から橋本左内、大村益次郎、福沢諭吉、大鳥圭介ら国家有為の人材が輩出した。文久二年、新渡戸稲造が生まれた年に幕命を受けて江戸の西洋医学所(東大の前身)頭取となった。著書『病学通論』は日本最初の病理学書である。

 後藤新平が東京の荘村家で逆賊論を戦わせて水沢の自宅に帰ることを思った頃、福沢諭吉の著書『学問のすすめ』第一編が発表された。全十七編から成り、明治五(一八七二)年から明治九(一八七六)年にかけて分冊として発行された。明治十三(一八八〇)年には一冊の本として出版された。

 その現代語版初版が「ちくま新書」から斎藤孝訳で出たのは二〇〇九年二月である。『学問のすすめ』は日本人が書いた書物の中で最も有名なものの一つである。現代訳を参考にして『学問のすすめ』を取り上げたい。

 新平が水沢の自宅に帰ろうという心境になったころ『学問のすすめ』が世に出たが、『学問のすすめ』は「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」のあの有名な言葉から始まる。新平が『学問のすすめ』を読んでいたかどうかは知らない。

 天が人を生み出すに当たっては、人はみな同じ権理(権利)を持ち、生まれによる身分上下はなく、万物の霊長の人として身体と心を働かせてこの世界のいろいろなものを利用し、衣食住の必要を満たし、自由自在にまた互いに人の邪魔をしないで、それぞれが安楽にこの世を過ごしていけるようにしてくれているということだ。(以下略)

 『学問のすすめ』は緒方洪庵に学んだ福沢諭吉によって、後藤新平が下宿先で主人と不仲になった時期の明治五年二月に第一編が出版され、最後は第十七編で終わっている。今後も折に触れて引用する。