世界最古といわれるイタリア・ボローニア大学に残る中世の解剖室=1994年10月(筆者撮影)
世界最古といわれるイタリア・ボローニア大学に残る中世の解剖室=1994年10月(筆者撮影)
 明治五(一八七二)年、奥州街道の宿駅として、商業の町として藩制時代の白河藩を支えたのが須賀川町である。明治維新後、「白河以北一山百文」と東北地方は薩長体制から蔑視された。後藤新平は蔑視観の境界に身を置いた。原敬はその差別体制を屈服させようと俳号を「一山」とした。

 原敬、後藤新平の身の置きどころに気脈が通ずるものがある。二人は明治四年に古里を後にして東京に出たが、同じ年に新渡戸稲造も東京を目指した。明治四年の「三人組」ということができよう。

 さて、明治四年七月に白河仮病院が開院し、同年九月に西洋医学による医師の養成を目的に医術講義所も開設された。医術をめざす志のある人々が福島の内外から集まった。戊辰戦争の激戦地だった白河での経営は苦しかった。

 須賀川町は強力な運動で病院を誘致し、福島県病院と称されることになった。一時私立となったが、間もなく県立須賀川病院となり、明治六(一八七三)年、病院新築落成と同時に福島県公立須賀川病院と改称された。医学所と寄宿舎も併せて新築された。

 明治七年二月、医学所に初めて七人の入学者を迎えた。七人の初入学者のうちに後藤新平もいた。彼は、県令安場保和の知遇を得て希望に燃えていた。

 明治七年に須賀川病院の医学所に入学した後藤新平であるが、医学所の学生生活は二年間である。現在の大学医学部は六年制である。明治七年三月、渋谷正信教授指導の下に最初の死体解剖が医学所の医学生によって行われた。

 後藤新平はこの後、明治八年七月四日、寄宿舎の舎長に任命された。

 さらに半年後の明治九年三月、学生とは別に医師として再教育をめざす人達は、寄宿舎生の外舎長と称していたが兼任を命ぜられた。月給は八円。新平は須賀川病院医学所の内舎、外舎の寄宿舎生全員の取り締まりをすることになった。

 学校当局の思惑とは別に、二十歳前後の若者が舎長づらをして取り締まり責任者になったところで、家に帰れば妻子がある外舎生らは、おいそれと言うことを聞くとは思われない。年齢は三十代、四十代だ。飲酒、遊興の悪習もある。

 後藤新平は、一同を集めて訓示をした。

 「はからずも舎長を拝命したが、諸君の方が年長、思慮も分別もある。会則とはいえ、監督することになったことは心苦しい。が、ここに二冊の帳簿を持参した。何もいわれなくとも、会則を守るものは、この方に姓名を書いてもらいたい。意思が弱くして、会則を守れないという向きは甘んじて自分(新平)の別の一冊に署名してもらいたい。」

 後藤新平は周囲を見回した。外舎生の面々は規則を守る自信がないと言って帳面に署名するわけにゆかず、前者(規則を守る)に記入した。

 これで秩序が保たれた。年長者も新平の気魄に飲み込まれた。

解剖で外科医の力量発揮

 平成六年秋のことである。ジョンズ・ホプキンス大学のイタリア・ボローニアセンターを視察に行った。

 その時、ボローニア大学の計らいで中世の解剖室を見学した。中央の台に死体が横たわり、死体が置かれた場所を二階の映写室のような窓から監視する状景が見渡される歴史資料室となっていた。中世のカトリック教徒がいかに死体解剖に目を光らせていたか、と思ったものだ。

 後藤新平は須賀川病院医学所で行った最初の死体解剖で外科医として力量を発揮、これなら学生らのリーダーになれると評価されたのであろう。舎生の取り締まり責任者に任命されたのは、若い新平が統率力と胆識を見込まれる場面でもあった。

 明治八(一八七五)年一月、須賀川医学所は須賀川医学講習所と改められ、医学講習所は速成法を目的に、生徒入舎規則を改正した。舎生を内外に分け、内生は三年生ならびに志願者、学年を二年から三カ年とした。費用は自弁である。外生は開業医、六カ月を一期として修業させた。一、二名に限って漸次入舎させて学費を給した。

安場を慕い愛知県病院へ

 後藤新平は、福島県令安場保和(一八七二年六月二日~七五年十二月二十七日)が福島を去る日が近いことを察知したかのように二年の学業の終りが近づいたころ、身の処し方を考えていた。校長が彼を呼び、身の振り方を尋ねた。新平は、「医学の門に入ってから二年しかたちません。まだ勉強したい。それには開業するよりも、どこかの病院に勤めた方がいいように思います」と答えた。校長は「出羽の鶴岡県病院から一人優秀な医官を推挙してほしいと言われている…月給は二十五円出すという」ことを伝えた。

 明治八、九年の二十五円は少ないものではない。医学校在学期には新平の生活費は毎月三円だった。鶴岡県病院からの招きに応ずれば、新平は貧乏生活から抜け出せる。そのころ、医者は引っ張りだこだった。昔ながらの漢方医ならどこにもいる。西洋医学を修めた新しい医者が不足だった。須賀川医学校は変則の速成課程だが、それでもそこを優秀な成績で卒業することは誇るべき経歴である。

 鶴岡県病院から新平が四十円欲しいと要求したのに対して、三十五円で我慢してとの返事があり就職が決まった。そこへ東京の阿川光裕から新設の愛知県病院へ月給十円で来ないかと、勧誘があった。

 安場保和は新しく愛知県知事となった。安場と阿川は後藤新平を手元に呼び、手腕を発揮させようというのだ。

 三十五円と十円、新平は比較してみた。熟慮して十円を選択した。「医は仁術」と言われている。現代は算術になり下がった医者が多いというが、安場保和、阿川光裕の恩義は海より深しと考え、愛知県病院を選んだ。医師・新平の第一歩である。