左端が北里柴三郎、右端が後藤新平
左端が北里柴三郎、右端が後藤新平
 新平は、明治十六(一八八三)年一月二十五日、内務省御用掛を拝命した。当時、内務省衛生局は、大学生の秀才を採用した。内務省衛生局には大学出の医者は暁の空の星ともいえるように少なかった。その中に後藤新平の姿は目立つ存在だったろう。

 同じころ内務省衛生局に入ったのは新進の学士北里柴三郎である。新平は月給百円であった。北里柴三郎は七十円と少ない。見比べて北里は長与専斎衛生局長に抗議した。

 北里、いわく「私は仮にも最高学府を出ています。後藤君は、福島あたりの、あやしげな医学校の速成課程を修了したにすぎないそうではないですか。私はどうしてそういう男の下風に立たねばならないのでしょう」

 北里柴三郎は嘉永五(一八五二)年十二月二十日に肥後に生まれた。東京医学校(現東京大学医学部)卒業後、一八八五年から九一年までドイツに留学し、R・コッホの下で細菌学を学んだ。一八八九年に破傷風菌の純粋培養に成功し、毒素を抽出、これを兎に注射して血清に抗毒素をつくらせ、この血清を人に注射することによって破傷風を予防、治療するという破傷風の血清療法を九〇年十二月三日に発表した。これは世界の学界を驚嘆させた。帰国後、九二年に設立された伝染病所長に就任、九二年香港に出張して、腺ペスト菌を発見したが、評価されて一九〇八年、イギリス王立教会の名誉会員に選ばれた。一四年に政府は伝染病研究所を内務省所轄から文部省に移し、東京大学付属を決定したので、これに反対し所長を辞め、北里研究所を創立した。二四年男爵、慶応義塾大学に医学部を創設して医学教育に当たった。また、日本結核予防協会理事長として、結核撲滅に努めるなど日本の社会衛生の発展に力を尽くした(一九三一年六月十三日没)。

 須賀川医学校に学んだ後藤新平であるが、内務省衛生局の職員からは、北里柴三郎のように不満を持つ者もいただろう。北里から抗議された内務省衛生局長長与専斎はどう答えたか。

学歴超えた、新平の報酬

 長与専斎は天保九(一八三八)年八月二十八日、長崎に生まれた。肥前大村藩士。安政一(一八五四)年大阪に出て、日本洋医学の先駆者緒方洪庵の門に入る。蘭学、医学を修めたのち、長崎でオランダ医師M・ポンぺ、C・マンスフェルトから蘭医学を学び、長崎医学校学頭となる。明治四年、東京に出て内務省に入り欧米を回って医学教育、医事行政を視察、帰国後、種痘法を制定、牛痘腫継所を設置した。東京医学校長、元老院議官、晩年は貴族院議員となる。

 北里柴三郎は後にドイツ留学で後藤新平とは留学仲間となる。だが、出会い当初の内務省衛生局では、後藤の月給は上で、北里とは格段の差があった。北里はこれに不満の声をあげて長与専斎にかみついた。

 北里の抗議に、長与は相手が納得できるような回答ができなかった。

 「後藤君は前任地の俸給が八十円だった。新しく招聘するときは、これまでの給与より高い額で来てもらうのが慣例なので百円にした。後藤君は名古屋では月給以外の収入が二、三百円あったという。今度、内務省に入るについては、本務に専念して、自宅開業のようなことは一切しない覚悟だという。彼にとっては大変な減収になるわけである。そういうことも考えてやる必要があろうかと思う」

 「それはわかったが、私の月給七十円というのはわからない」と北里。

 長与は「新しく学校を出た人の初任給は、官制で決まっている。みだりに変更はできない。実力があって、勤務に精励する人は昇給するから、もし君が真に大学出にふさわしい実績をあげるなら不均衡は是正されるだろう」

 長与は北里をなだめ、不満はあろうがと、納得してもらった。

 後藤新平は須賀川医学校の正則コースではなく「変則」という名の速成コースを二年間の修業というか、教育を受けたにすぎない。それなのに、就職してからの評判はよかった。速成コースだが、天性的な素質を持っていたからであろうか。実力は外科医としては抜群だった。

衛生局長代理を務めて

 このころから後藤新平はすっきりした美男の本領に帰って、当世風の紳士に変容した。学者という空気を身辺に漂わせていた。

 北里柴三郎の件が収まり、長与専斎局長から新平が呼ばれた。

 話は「突然だが、熱海にいる岩倉具視右大臣閣下から、何かおたずねがあるとのことで私にすぐ来るようにとのことだが、私にはほかによんどころない用があるので、私の代理を務めてくれないか」であった。

 長与専斎は、人物を見出して連れてきたという思いがあった。後藤新平を試してみようと考えて、代理派遣という手を使った。新平は人に認められ、抜擢されてやって来たことを顧みて、置かれた立場を理解できた。

 長与命令では宮内省御用掛の肥田浜五郎の同行を求めていた。肥田は来ていなかった。新平は一人、岩倉公の泊まっている相模屋へ行き、面会を求めた。

 女中が襖を開けると、地味な色合いの寝巻きかドテラだか、ありったけ着込んで、それでも寒そうにしている小柄な風采のあがらない老人がいた。明治四年、米欧視察団の団長岩倉具視その人である。随行員として参加し、サンフランシスコで一行から離脱して途中帰国したのは安場保和である。長与専斎は、視察団に随行することを嘆願して加わった経緯がある。

 岩倉は新平と会って六カ月後の明治十六(一八八三)年七月二十日に死去した。享年五十九歳。