

衛生局長時代の長与専斎(『国立衛生試験所百年史』より)
明治政府発足後の最高官庁は太政官(だじょうかん)と呼んでいた。国政を総理する太政官は左右大臣、大納言、参議、大中小弁、大中小吏などで構成することとしていたが、明治十八(一八八五)年に内閣制度の発足に伴い消滅した。
維新後、岩倉は右大臣、板垣退助は西郷隆盛と同じ参議だった。征韓論を主張して、西郷らと辞職し、民選議員議院設立建白書を提出する。それ以降、自由民権運動を指導して自由党を創設、総理に就任して遊説中に明治十五(一八八二)年四月六日、岐阜で暴漢に襲われた。
新平は愛知病院長だった。板垣の現場に急行し、負傷を手当てした。傷は軽くてすんだ。岩倉と会ったのはその翌年のことであるが、明治十六年二月のことである。岩倉は、内務省衛生局長の長与専斎が名代として後藤新平を差し向けたことに対して「長与も随分と新参者を寄こしたものだ」と話しながら、新平に向かって「これまで何をしていたか」とただした。
「愛知県病院の院長をしておりました」
「確か昨年板垣が刺されたとき、駆け付けたのは、愛知県病院の院長ではなかったか」
「手前(新平)でございます」
「あの時はご苦労であった…」
この時である。岩倉は急に打ち解けた態度になった。
「本日、その方に来てもらったのは、熱海は気候温暖、風光明媚で、都人士の保養にはこの上ない土地である。そのために肺病患者が多く集まる。あまり患者がふえると、明澄なる空気を汚染して、健康なる人士にまで害毒を流す。噏気館(きゅうきかん)といって旅館と病院を兼ねたような施設を作り、一般の人たちから隔離したらどうかと意見を言う者がある。その可否について医学者としての考えを聞きたい」
新平は「それにはまず、温泉の蒸気を分析してみる必要があると思います」と答えた。
岩倉は「そのことなら、先年すでにベルツ博士が詳しく分析している。その報告を見れば済むことであろう。同じ事を繰り返す必要はない」
ドイツ人医師、ベルツ
新渡戸稲造が札幌農学校教授を退任して、病気転地療養のため群馬県伊香保温泉に休養に入ったのは明治三十(一八九七)年十月のことである。
稲造は職務上の繁忙と一身上の出来事が重積して、重症の神経痛で黒板に字が書けないようになり、ドクトル・ベルツの勧めで農学校を退任し群馬県伊香保に転地療養(新渡戸稲造年譜)することになった。ベルツの勧めで稲造は伊香保-カリフォルニア州モントレーと療養生活をすることになった。明治三十二年三月二十七日、伊香保で滞在中に佐藤昌介とともに日本初の農学博士の学位を受けた。
その裏にベルツの診断、勧めがあったことで医者としてのベルツ(Baeilz Erwin Von 1849.1.13-1913.8.3)は、すぐれた指導者と思っていた。ベルツはドイツの内科医で、ライプチッヒ大学を卒業し、明治九(一八七六)年来日、東京医学校教師、東京大学医学部、帝国大学医学部の教師となり、生理学、病理学を講じた。後に内科学を担当。また、婦人科学も講じた。
越後地方で恙虫病を調査、また脚気論等を発表した。草津、伊香保の温泉研究をしてその効能を世に紹介した。宮内省侍医、東京帝国大学名誉教授、明治三十九(一九〇六)年に帰国、二年後に再び来日し、勲一等に叙せられた。(『西洋人名辞典』岩波書店)
新平の勇気ある発言
ベルツについて説明をしたが、少なくとも新渡戸研究家は、明治年代に日本に西洋医学を紹介した知名の医学者と、新渡戸稲造を通じて理解していることであろう。後藤新平は違う。
後藤新平が岩倉具視と会った日、宮内省の侍医伊藤方成も岩倉のもとへ来ていた。岩倉の面前で、伊藤侍医は襖の外で膝をついて、丁寧にお辞儀をすると、そのまま、おそるおそる膝で歩いて岩倉の前に進み、再び、うやうやしく平伏すると、ようやく顔を上げた。いやしくも右大臣岩倉公に会うにはこうでなければならないと新平は反省したことであろう。
新平はベルツの医学士たちが、何かと言えばベルツ、ベルツといって、引き合いに出すので、快く思っていなかった。岩倉の質問に答えた。
「ベルツはどんな分析をしたか、分かりませんが、大体ベルツという男は日本人を未開野蛮の民族と心得て、動物実験の材料のように扱っている人物です。そういう男の分析表は、到底信ずることができません」
同じような質問を岩倉は伊藤方成侍医にしている。しかし、回答はのらりくらりで要領を得ない。その裏にベルツ陰がある。
ベルツに限らず、明治時代に日本に来ていた西洋人には尊大と傲慢にたびたび腸(はらわた)の煮え返るような思いをしてきた岩倉は、後藤新平の勇気ある一言が気に入ったと言わんばかりににっこり笑った。新平の面目発揮の場面だ。後藤新平はこうして内務省衛生局長長与専斎の名代を立派に果たした。