
後藤新平を話すに当たって和子夫人の内助の功を見逃してはならないと新渡戸稲造は彼の著書『偉人群像』の中で書いている。前にもそのことについて触れたが、確かに今の女性とは違う。腹の据わった女性であり、今の女性ならどう対応するだろうかと思わせられる場面がある。
今回はそれを紹介したい。その場を、いやそこに至るまでの道筋は少々長くなる。
人を引き付ける新平
長与専斎が岩倉具視の下へ後藤新平を名代として派遣したのは、新平に対する“人物検査”ともいうべきものであった。その長与専斎が岩倉具視を団長(大使)とする米欧視察団の随行の一員に加えてもらうように伊藤博文、木戸孝允に願い出た。その際、長与専斎が長崎医学校で教えた青木周蔵、松岡勇記など長州(山口)出身者の紹介推薦が有効に働いた。長与が明治政府で重用された背後には、これら長州人の力があった。
後藤新平は明治十六年、衛生局東京試験所長心得を命ぜられ翌年は牛痘種継所長、その次の年には衛生局第二部長に昇進した。明治十八年、官制の大改革があって、新平は従来の内務省御用掛を免ぜられて、新たに内務四等技師を命ぜられる。このころ、彼の仕事は全国旅行して衛生施設の実情を視察したり、衛生施設の実情を視察、医術開業試験の事務を管理したりすることだった。
彼は不思議な魅力というか磁力があって行く先々で多くの人びとを引き付けた。優秀な人材のいる内務省でも、周囲に集まる人は多かった。彼はまた、東京府下の下水掃除改修の方法について詳細な建白書を出している。
後藤新平は何か不思議な魅力を持つ人物だった。愛知県病院長時代には、その性格にほれ込んだ女性も多かった。男性にとっても、新平は約束を守ることでは実行力があると信頼されていた。一例を挙げよう。大正期に入って寺内正毅内閣のときに後藤新平は大正七年四月二十三日に内務大臣に就任した。内務省時代の友人水野錬太郎を次官に採用した。水野は既に山本権兵衛内閣で内務次官を務めていて寺内内閣では大臣といわれていたが、請われるまま再び次官の地位についた。
後藤新平が二十代の内務官僚時代に水野との間にあなた(後藤)は今に大臣になる。そのときは私(水野)がその下で助けようとの約束があった。後藤が大臣を辞めた時、後任を託したのが水野である。後藤の友人関係を物語っている。
学歴偏重払拭で決意
明治二十三年四月、新平は三十四歳でドイツ留学をする。大日本帝国憲法が発布されたのは翌年のことである。
欧州留学は新平にとって長年のあこがれでもあった。特に須賀川医学校という田舎の学校出と言われる悔しさがあった。それを返上するための留学を新平は夢みていた。
後藤新平は、田舎水沢の生まれだが、知能、学識においても衆を抜いていた。それにもかかわらず、北里柴三郎のように、大学出の自分が後藤新平の下風に立つのは、耐えられないと抗議する者もある。ならば留学してヨーロッパの大学に学び、ドクトルの学位を得て彼らを圧倒しようと新平は胸に秘めていた。
文句を言った北里柴三郎は内務省衛生局の官費留学生として入省二年目で、ドイツ留学生に選ばれた。ここは長与専斎が配慮し北里柴三郎がドイツ留学に恵まれたのであろう。
新平にとって大学出の同僚にひけ目を感じない道はただ一つ、洋行することであった。近代国家として成長することを目指す日本にとって、洋行帰りは万能だっただけに、新平にとっては何としても外国留学をする必要があった。残念ながら学歴のため、その機会が巡ってこなかった。
新平は自費で留学することを願い出た。内閣はこれを許し、一時金として千円支給することとした。この金では往復の船賃にしかならない。普通の官費留学は、月給のほかに滞在中の宿泊料、諸手当が支給される。自費留学ではその恩典がなく、留守宅へ正規の俸給が支払われるだけである。今の時代であったらどうだったろう。自費留学が決まったが、彼の年俸はそのころ千六百円。このうち毎月百十円は正金銀行の為替でドイツに送ってもらわなければならない。それが留学費である。合計で年額千三百二十円である。残りの二百八十円が新平一家の生計費だ。これでは暮らしが成り立たない。
新平は妻和子の実家安場家の世話になることにした。安場保和はそのころ福岡県知事だった。広い官舎の一隅に新平の留守家族は住むこととした。

新平とは十九歳で結婚した和子、姑利恵とが新平の留学中の生活を送ることになる。和子は娘時代に返って父母に甘えていられるが、利恵には苦痛である。福岡に移り住んではみたものの、気苦労の日々だった。
新平がドイツに立つ前、後藤家では異変が起きた。新平は留学に希望をふくらませていたが、残される家族、妻和子は実家のもとで暮せるからいいとしても、新平の母利恵は嫁の実家九州に世話になりに行くのである。
利恵は心細さのあまり「せめて孫でもいてくれたらいいんだが-」と溜め息をもらした。新平夫婦には結婚七年にもなるのに子供がいなかった。利恵の溜め息を聞きつけた新平が「そんなに孫がほしいですか」と応じた。
「ほしくも、ほしくないの問題じゃない。跡取りがいなくちゃ…」
子供が生まれないのは、すべて女の責任のように言われた時代である。和子はなんとなく非難されているような気がする。そこへ新平は言った。「孫なら、今すぐにでも出来ますよ」。利恵は「何ですって。孫なんてそんなに簡単にできるものじゃない」と反応した。新平の真実の姿が表面化する。やがて利恵はびっくりする。
新渡戸稲造とメリー夫人とはアメリカのジョンズ・ホプキンズ大学時代に相思相愛の仲となり、終生、絆は変わらなかった。どのような感慨を持って著書『偉人群像』に和子夫人を取り上げたのであろうか。
今回はそれを紹介したい。その場を、いやそこに至るまでの道筋は少々長くなる。
人を引き付ける新平
長与専斎が岩倉具視の下へ後藤新平を名代として派遣したのは、新平に対する“人物検査”ともいうべきものであった。その長与専斎が岩倉具視を団長(大使)とする米欧視察団の随行の一員に加えてもらうように伊藤博文、木戸孝允に願い出た。その際、長与専斎が長崎医学校で教えた青木周蔵、松岡勇記など長州(山口)出身者の紹介推薦が有効に働いた。長与が明治政府で重用された背後には、これら長州人の力があった。
後藤新平は明治十六年、衛生局東京試験所長心得を命ぜられ翌年は牛痘種継所長、その次の年には衛生局第二部長に昇進した。明治十八年、官制の大改革があって、新平は従来の内務省御用掛を免ぜられて、新たに内務四等技師を命ぜられる。このころ、彼の仕事は全国旅行して衛生施設の実情を視察したり、衛生施設の実情を視察、医術開業試験の事務を管理したりすることだった。
彼は不思議な魅力というか磁力があって行く先々で多くの人びとを引き付けた。優秀な人材のいる内務省でも、周囲に集まる人は多かった。彼はまた、東京府下の下水掃除改修の方法について詳細な建白書を出している。
後藤新平は何か不思議な魅力を持つ人物だった。愛知県病院長時代には、その性格にほれ込んだ女性も多かった。男性にとっても、新平は約束を守ることでは実行力があると信頼されていた。一例を挙げよう。大正期に入って寺内正毅内閣のときに後藤新平は大正七年四月二十三日に内務大臣に就任した。内務省時代の友人水野錬太郎を次官に採用した。水野は既に山本権兵衛内閣で内務次官を務めていて寺内内閣では大臣といわれていたが、請われるまま再び次官の地位についた。
後藤新平が二十代の内務官僚時代に水野との間にあなた(後藤)は今に大臣になる。そのときは私(水野)がその下で助けようとの約束があった。後藤が大臣を辞めた時、後任を託したのが水野である。後藤の友人関係を物語っている。
学歴偏重払拭で決意
明治二十三年四月、新平は三十四歳でドイツ留学をする。大日本帝国憲法が発布されたのは翌年のことである。
欧州留学は新平にとって長年のあこがれでもあった。特に須賀川医学校という田舎の学校出と言われる悔しさがあった。それを返上するための留学を新平は夢みていた。
後藤新平は、田舎水沢の生まれだが、知能、学識においても衆を抜いていた。それにもかかわらず、北里柴三郎のように、大学出の自分が後藤新平の下風に立つのは、耐えられないと抗議する者もある。ならば留学してヨーロッパの大学に学び、ドクトルの学位を得て彼らを圧倒しようと新平は胸に秘めていた。
文句を言った北里柴三郎は内務省衛生局の官費留学生として入省二年目で、ドイツ留学生に選ばれた。ここは長与専斎が配慮し北里柴三郎がドイツ留学に恵まれたのであろう。
新平にとって大学出の同僚にひけ目を感じない道はただ一つ、洋行することであった。近代国家として成長することを目指す日本にとって、洋行帰りは万能だっただけに、新平にとっては何としても外国留学をする必要があった。残念ながら学歴のため、その機会が巡ってこなかった。
新平は自費で留学することを願い出た。内閣はこれを許し、一時金として千円支給することとした。この金では往復の船賃にしかならない。普通の官費留学は、月給のほかに滞在中の宿泊料、諸手当が支給される。自費留学ではその恩典がなく、留守宅へ正規の俸給が支払われるだけである。今の時代であったらどうだったろう。自費留学が決まったが、彼の年俸はそのころ千六百円。このうち毎月百十円は正金銀行の為替でドイツに送ってもらわなければならない。それが留学費である。合計で年額千三百二十円である。残りの二百八十円が新平一家の生計費だ。これでは暮らしが成り立たない。
新平は妻和子の実家安場家の世話になることにした。安場保和はそのころ福岡県知事だった。広い官舎の一隅に新平の留守家族は住むこととした。

新平と母利恵
新平がドイツに立つ前、後藤家では異変が起きた。新平は留学に希望をふくらませていたが、残される家族、妻和子は実家のもとで暮せるからいいとしても、新平の母利恵は嫁の実家九州に世話になりに行くのである。
利恵は心細さのあまり「せめて孫でもいてくれたらいいんだが-」と溜め息をもらした。新平夫婦には結婚七年にもなるのに子供がいなかった。利恵の溜め息を聞きつけた新平が「そんなに孫がほしいですか」と応じた。
「ほしくも、ほしくないの問題じゃない。跡取りがいなくちゃ…」
子供が生まれないのは、すべて女の責任のように言われた時代である。和子はなんとなく非難されているような気がする。そこへ新平は言った。「孫なら、今すぐにでも出来ますよ」。利恵は「何ですって。孫なんてそんなに簡単にできるものじゃない」と反応した。新平の真実の姿が表面化する。やがて利恵はびっくりする。
新渡戸稲造とメリー夫人とはアメリカのジョンズ・ホプキンズ大学時代に相思相愛の仲となり、終生、絆は変わらなかった。どのような感慨を持って著書『偉人群像』に和子夫人を取り上げたのであろうか。