

福沢諭吉
「そもそもわが国の人民が無気力な原因を推してみると、非常に長い間、全国の権力を政府が一手に握って軍備や学問から工業、商売に至るまで、世の中のどんな瑣末な仕事であっても、政府の息のかからないものはなかったことによる。人民はただ政府の命じるところに向って奔走するだけだったのだ」(68ページ)
北里に対する福沢の目はこのような考え方に基づくものであろう。昔から捨てる神あれば拾う神あり-と言われている。北里は福沢の応援を知り、そのような思いであったろう。後藤新平も成り行きを知っていたに違いない。長与専斎が潰れたといっても慶応義塾大学の塾長に後藤新平を推薦したことがあると前に書いた。決して実現が不可能ではないと長与は思っていただろう。
日本初の研究所が誕生
後藤新平は長与専斎から見いだされて出世街道を走った。磁石のような魅力を持っていた。北里柴三郎は、ドイツ留学を終えて帰朝したものの、居場所のないまま形だけの「月給取り」に甘んじていた。長与が衛生局長の座を後藤新平に譲ったのが、新平が中央で活躍する舞台になる。
長与専斎は「北里が念願の伝染病研究を続けられないので、やむをえず内務省の衛生技師をしている。あんなことを長くさせておくと折角の学問が錆びついてしまう…」
福沢は「研究所設置が反対者のために停滞しているとすれば誰かが力になってあげねばなるまい。幸い私は芝公園地内に土地を持っている。提供してささやかな研究室を建ててやってもいい」と長与に言った。
昨年十一月、岩手中央農協組合長藤尾東泉氏を団長に台湾大学薬学部に六人の使節団を送った。帰ってからの説明を受けて一番感じ入ったのは薬草によるガンの特効薬の開発を目指して研究に取り組んでいたということだった。岩手医大は矢巾町に薬学部を設けた。三年が経過しているが、「薬草から征ガンを」という時代を期待したい。
脇道にそれたが、研究の続行をできない北里柴三郎にとって福沢諭吉の支援発言は有難いことであったろう。福沢はこうも言った。「実験に使用する機械器具、薬品とか、いろいろなものが必要だろう。それらを全部賄ってあげられるかどうか。初めは不自由を我慢してもらっているうちに、何とかしてあげることができるかもしれない」
長与専斎がそのことを北里柴三郎に話をし、その後に福沢も北里に説明するという具合に進んだ。
明治二十六年一月にはさっそく建築に取りかかり、二階建て六室、建て坪三十数坪の本屋や付属の動物小屋が竣工した。これを聞いた実業家の森村市左衛門が千円を贈り、その他からも金品が贈られた。こうして日本で最初の伝染病研究所が産声を挙げた。
後藤新平の奮闘が実る
人間の知恵が進み学問や科学が栄え、精神的、物質的に人々の生活が豊かになることを文明という。「学問のすすめ」では「国の文明というものは、上の方、政府から起こるべきものではなく、下の方、人民から生まれるものでもない。必ずその中間から興って庶民に向かうべきところを示し、政府と並び立ってはじめて成功を期待すべきものだ」という。
北里柴三郎に対する着眼点はこの辺りにあったのだろう。伝染病研究所は建ったものの、規模は小さく施設も貧弱で、充分な研究を成し遂げることは難しかった。研究に一つの磁石を置いたことになるが、磁石にすぎなかった。
内務省衛生局に集う長与専斎、石黒忠悳、後藤新平らは、伝染病研究という事業は、やっぱり公的機関によって運営されるべきだと痛感して、北里柴三郎の研究所を内務省の外郭団体・大日本私立衛生会に引き継がせるように計画した。その相談を受けた福沢諭吉は「私はこの研究所を、自分の私有物と思っていない。北里君が研究を続けられないといって困っていると聞いたので、援助しようと思っていただけです。もし、私立衛生会という大きな組織で引き受け、北里君をして心おきなく研究に専念させてもらうなら、私としては何も言うことはない」
建物、地所、一切の施設を無償で私立衛生会へ貸与することを申し出た。伝染病研究所は正式に大日本私立衛生会の事業となった。
他方、東京大学では伝染病の学問的研究はどこまでも大学の責任で行われるべきものであると主張して、文部省の伝染病研究所設置案を議会へ提出した。この間における後藤新平の活躍ぶりは特に目覚ましかった。新平は各方面を奔走し、大学側の非を説き、衆議院に議席を持つ医者長谷川泰らと連携して大学側の研究所設置案を否決させると同時に、別に「伝染病研究所補助費」の建議案を提出して、満場一致で成立させた。
これによって、伝染病研究所は国庫から毎年一万五千円の補助を受け、建築費二万円で芝愛宕町にある内務省用地に新しく屋舎を建てることになった。初め福沢によって建てられた芝公園地内の屋舎とは比べものにならない壮麗なものが計画された。
ところが思わぬところから支障が起きた。伝染病に対して盲目的な恐怖心を抱く地元住民が設置反対運動を起こしたのである。彼等は演説会を開き、各方面に陳情し、反対の気勢を挙げた。
北里柴三郎は「敵の方があまりにも多すぎる」と沈うつに言う。紆余曲折を経て後藤新平は腹心の属官を呼び、絶対秘密を条件に伝染病研究所建設の工事現場にある立札に墨(すみ)を塗り帰って欲しいと伝えた。属官は納得のいかぬまま言われた通りにした。
地元民は墨を塗ったのは、反対派の急先鋒と信じて、手段を選ばぬやり方に反感を持ち運動から脱落し始めた。真の犯人は後藤新平である。伝染病研究所は間もなく完成し、北里柴三郎はその所長になった。
後藤新平がドイツ留学から帰った一年ばかりの間が最も得意の時代だった。