

明治20年(ドイツ時代)に撮影の石黒忠悳
この日、妻の和子は、長男一蔵出産の約一カ月後で、まだ床についていた。裁判所の吏員は産室の中も捜索しようとしたが、予審判事多越勝治は「後藤も相当な人物だ。産室へものを隠して法網を逃れる卑法なことはすまい。産後は、夫人をそっとしてあげるように…」と言い、捜索班も細心の注意を払った。和子夫人も、いま何事が起きているか気付かなかった。
新平の恩人石黒忠悳(ただのり)は、このころ軍医総監だったが「君があぶないといううわさをあちこちで聞く。一体どうなのか。この際、内務大臣に会い、事情をよく説明しておいたらどうか」と新平に助言した。
時の内務大臣は井上馨。新平は内務省衛生局長なので直属の長官に当たる。しかし、新平は袖にすがろうとしなかった。錦織剛清(にしごりたけきよ)らが警察に拘束されて以来、後藤新平は道を歩いていても警官の姿を見ると、ぎくりとした。
錦織剛清一味は逮捕されたが、新平は内務省衛生局長の地位にあるので、身柄を拘引するには、天皇に上奏してご裁可が必要であったからだ。錦織剛清らが拘引され、三週間過ぎた十一月十六日夕刻、神田駿河台の青山胤通(たねみち)を訪れた後、裏猿楽町周辺を歩いていた時、一隊の警官が現れ、令状を示して「直ちに同行されたい」と言った。
ここからが新平の「冬の始まり」である。逮捕された晩は警視庁に留置された。翌日、鍛冶橋監獄署に移され、日にちが経つにつれて新平も元気がなくなる。初めは参考人として事情聴取されるだろうという程度に考えていた。
だが、予審判事の取り調べは峻烈を極めて参考人どころか、相馬家乗っ取りの陰謀に加担した張本人と思える取り調べに見えた。新平は事態の重大さを知るとともに降りかかる災禍を防がねばならぬと決意した。
後藤新平に無罪の判決
予審判事が峻厳なのには理由がある。新平と同時に逮捕された仲間に東京地方裁判所の判事山口淳(きよし)がまじっていた。山口が錦織剛清から賄賂を受け取った疑いによる逮捕で、裁判所にとっては不名誉きわまりない事件であった。
錦織と山口判事との関係は明治二十四年に始まる。錦織は判事山口淳に相馬事件の始まりともいえる“人間泥棒事件”で取り調べを受け、無罪放免された後、山口の自宅を訪れて寛大な処置を受けたことに対する謝辞を述べた後に今後のことを考えて金品を贈った。
それがきっかけで山口判事を訪ねて歓心を買っていた。相馬誠胤(ともたね)の死去とともに、これを毒殺として告発しようとし、山口に相談した。山口は裁判所内からこれを助けようと約束した。錦織が実行に踏み切った背景である。
その間、錦織と山口は度々料亭その他で会合し、密議をした。この事実が発覚したことは東京地方裁判所にとって衝撃的であった。
西川判事は昨日まで同僚で前任者だった山口淳判事を被告として取り調べねばならなくなった。そうかといって、西川判事は山口淳の取り調べに手加減ができない。
山口淳の失態は判事の職責を超え、係争の当事者と親しくしすぎたことだ。西川判事とすれば常にも増して山口淳に厳しく臨む必要があった。
後藤新平は西川判事と同僚ではないが、同じ官吏仲間である。西川判事は立場を心得ていただろうが過酷な取り調べだったと言われている。新平は「何を…この小僧めが」の態度だったという。
相馬事件の東京地方裁判所の判決は明治二十七年五月三日にあった。東京の各新聞社は号外を発行して報道した。
判決は▽錦織剛清 重禁錮四年 罰金四十円▽山口淳 重禁錮五年 罰金五十円▽無罪 小山トキ▽無罪 後藤新平。
翌日、錦織剛清と山口淳は控訴した。一方、検事工藤則勝は後藤新平の無罪を不当として控訴した。年末(二十七年)の十二月七日、東京控訴院は原判決を確認、ここに後藤新平の無罪が決定した。
戦争さ中の雪寃会に400人
明治十年から十七年間も続いた相馬騒動は終わりを告げた。半年にわたる獄中生活の後藤新平の無罪判決は各地の友人らを喜ばせた。
この間に清国との関係が悪化し、日本は二十七年八月一日、宣戦布告した。日清戦争が始まり、そのさ中の十二月二十六日に最初の雪寃会が上州高崎で開かれた。二十日には両国亀清樓でも雪寃会が開催されたが、ドイツ留学以来の親友で、新平の入獄中も終始彼のために尽くした金森英五郎(一八六五~一九四二年)をはじめ長谷川泰、高木兼寛、荒木寅三郎らが発起人で、参会者は四百人を超える盛会だった。
新平は起訴されると非職を命ぜられ、一年以上も浪人の身であった。依然として世間から疑いの目を向けられていた。
ここで新平を終始一貫して支持した代表者金森英五郎について紹介しておこう。
日本最古の私立医学校といえば東京慈恵会医科大学である。前身は成医会講習所であり、十四(一八八一)年五月一日の創設である。
金森英五郎は、二十五(一八九二)年九月、東京慈恵医院医学校に耳科・鼻咽喉科学の講座を開設、日本で最初の耳鼻咽喉科を一つにまとめた専門科を標榜した。その初代教授が金森英五郎である。新平が獄中生活中に耳が遠くなったことを思い、専門科をつくらなければならないと金森を走らせたとすれば、新平が耳鼻咽喉科を創設したともいえよう。