
日清戦争の勝利によって、台湾統治の最高責任者(総督)を「武官」にするか、「文官」に定めるかをめぐって武官とすることにし、初代の総督に海軍大将樺山資紀が就任。その後、桂太郎、乃木希典と陸軍大将が続いた。児玉源太郎が四代目の台湾総督となるに及んで民政局長、のちに民政委員長となるが、後藤新平を起用した。
総督を武官とするか、文官とするかについて伊藤博文首相の下に台湾事務局を設け、事務局のメンバー八人が、武官派と文官派と真っ二つに割れた。その結果、伊藤首相は結論を勅裁に求め、武官と決まった経緯は、先に説明した。
児玉源太郎は武官派を主張した。強烈に文官派を主張したのは原敬である。児玉源太郎は原敬の主張に配慮し、民政の責任者に後藤新平を起用したのであろうというのが私の考えである。(原敬日記には明治二十八年六月十三日開催の台湾事務局で大論争となった総督の「武官」「文官」論は出てこない)
乃木希典の遺産「匪徒刑罰令」

樺山、桂、乃木の三代の総督は見るべき実績を残していない。後藤新平が台湾に乗り込んで、阿川光裕に「台湾統治に当たり、もっとも心得なければいけないのは何か」を問うと、阿川は「軍人の横暴を抑えることだ」と答えた。乃木希典は昔は軍神と教えられたものだが、阿川はよくなかったと新平に言った。
「乃木さんは台湾全島を三つの地域に分け、第一は匪賊の力の強い山間地、第二は比較的緩やかな市街地、平地、第三はその中間地域と言うように線引きし、山間地の治安は、軍隊、憲兵隊が当たった。市街地、平地は警察が担当し、中間地帯は憲兵と警察が協力して当たる方針を定めた。これが三段警備の法というものだ。やってみると、成績は上がらない」と新平に説明した。
明治三十(一八九七)年当時の台湾には三個連隊約一万一千人の軍隊のほかに憲兵四〇三九人が駐在していた。警察権を行使し、地位によっては司法処分権を行使したが、政令がまちまちで、台湾人はいずれのいうことを基準とすべきか分からなかった。しかも軍隊と警察は不仲で、しばしば衝突する。
そこで乃木は先にも記したように各地域を三種類に分けた。三段階警備は、明治三十年六月二十六日から実施されたが、翌年二月に乃木希典総督が更迭、児玉源太郎総督によって六月二十日に撤廃された。命令の不統一や軍警の軋轢を招くとの理由による。
抗日ゲリラの消滅作戦について乃木総督はゲリラ招降策を執った。しかし、投降者の数は抗日ゲリラのごく少数。台湾各地に依然としてゲリラが活動していた。乃木総督が台湾に残した最大の遺産は明治三十一年律令第二四号「匪徒刑罰令」で、未遂犯も本刑を科す(第三条)という過酷なものだった。
〔匪徒刑罰令〕
第一条 何等ノ目的ヲ問ワス暴行又ハ脅迫ヲ以テ其目的ヲ達スル為多衆結合スルヲ匪徒ノ罪ト為シ左ノ区別ニ従テ処断ス
一、首魁及教唆者ハ死ニ処ス
二、謀議ニ参与シ又ハ指揮ヲ為シタル者ハ有期徒刑又ハ重懲役ニ処ス
三、附和随従シ又ハ雑役ニ服シタル者ハ有期徒刑又ハ重懲役ニ処ス
第二条 前条第三号ニ記載シタル匪徒左ノ所為アルトキハ死刑ニ処ス
一、官吏又ハ軍隊ニ抗敵シタルトキ
二、火ヲ放テ建造物汽車船舶橋梁ヲ燒燬シ若ハ毀壞シタルトキ
三、火ヲ放テ山林田野ノ竹木穀麦又ハ露積シタル柴草(さいそう)其他ノ物件ヲ燒燬シタルトキ
四、鉄道又ハ其標識灯台又ハ浮標ヲ毀壞シ汽車船舶往来ノ危険ヲ生セシメタルトキ
五、郵便電信及電話ノ用ニ供スル物件ヲ毀壞シ又ハ其他ノ方法ヲ以テ其交通ノ妨害ヲ生セシメタルトキ
六、人ヲ殺傷シ又ハ婦女ヲ強姦シタルトキ
七、人ヲ略取シ又ハ財産ヲ略奪シタルトキ
第三条 前条ノ罪ハ未遂犯罪ノ時ニ於テ仍本刑ヲ科ス
第四条 兵器弾薬船舶金殻其他ノ物件ヲ資給シ若ハ会合ノ場所ヲ給与シ又ハ其他ノ行為ヲ以テ匪徒ヲ幇助シタル者ハ死刑又ハ無期徒刑ニ処ス
第五条 匪徒ヲ蔵匿シ又ハ隠避セシメ又ハ匪徒ノ罪ヲ免カレシメンコトヲ図リタル者ハ有期徒刑又ハ重懲役ニ処ス
第六条 本令ノ罪ヲ犯シタル者官ニ自首シタルトキハ情状ニ依リ其刑ヲ軽減シ又ハ全免ス本刑ヲ免シタルトキハ五年以下ノ監視ニ附ス
第七条 本令ニ於テ罰スヘキ所為ハ其本令施行前ニ係ルモノ仍本令ニ依テ之ヲ処断ス
高等法院長、高野孟矩の裁定
台湾を日本が領有した当初の総督府官吏は腐敗していた。「当時に於ける官紀の頽廃に就いては之を史上に遺すに忍びず…、されども当時の官吏の官紀の頽廃し居りたるは蔽ふべからざる事実にして…、概ね是等の弊因は当時台湾官界に於ける三大疑獄事件(通信局、財務局、鳳山県等の収賄事件をいう)の如き醜果を醸したりき」(『台湾統治史』南国出版協会刊)
この腐敗に立ち上がったのが、台湾高等法院長兼民政局法務部長高野孟矩である。苦学して裁判官になった高野は、その才能を見込まれて娘を嫁にと司法大臣芳川顕正の要請を断った硬骨漢として台湾には伝わっている。明治二十九年四月、台湾総督府法院条例の発布によって、台湾の裁判所は高等法院・覆審院・地方法院の三級制をとり、高野は裁判所の最高ポストの高等法院長であった。
百鬼夜行の台湾官界で、高野は容赦なく摘発した。高等官十数人が逮捕された。勅任官で家宅捜索を受けた者もある。上京中の水野民政局長の逮捕も言われた。
「児玉・後藤」コンビには台湾官界の綱紀粛正の任があった。
総督を武官とするか、文官とするかについて伊藤博文首相の下に台湾事務局を設け、事務局のメンバー八人が、武官派と文官派と真っ二つに割れた。その結果、伊藤首相は結論を勅裁に求め、武官と決まった経緯は、先に説明した。
児玉源太郎は武官派を主張した。強烈に文官派を主張したのは原敬である。児玉源太郎は原敬の主張に配慮し、民政の責任者に後藤新平を起用したのであろうというのが私の考えである。(原敬日記には明治二十八年六月十三日開催の台湾事務局で大論争となった総督の「武官」「文官」論は出てこない)
乃木希典の遺産「匪徒刑罰令」

三段階警備に失敗した台湾の三代目総督乃木希典大将
「乃木さんは台湾全島を三つの地域に分け、第一は匪賊の力の強い山間地、第二は比較的緩やかな市街地、平地、第三はその中間地域と言うように線引きし、山間地の治安は、軍隊、憲兵隊が当たった。市街地、平地は警察が担当し、中間地帯は憲兵と警察が協力して当たる方針を定めた。これが三段警備の法というものだ。やってみると、成績は上がらない」と新平に説明した。
明治三十(一八九七)年当時の台湾には三個連隊約一万一千人の軍隊のほかに憲兵四〇三九人が駐在していた。警察権を行使し、地位によっては司法処分権を行使したが、政令がまちまちで、台湾人はいずれのいうことを基準とすべきか分からなかった。しかも軍隊と警察は不仲で、しばしば衝突する。
そこで乃木は先にも記したように各地域を三種類に分けた。三段階警備は、明治三十年六月二十六日から実施されたが、翌年二月に乃木希典総督が更迭、児玉源太郎総督によって六月二十日に撤廃された。命令の不統一や軍警の軋轢を招くとの理由による。
抗日ゲリラの消滅作戦について乃木総督はゲリラ招降策を執った。しかし、投降者の数は抗日ゲリラのごく少数。台湾各地に依然としてゲリラが活動していた。乃木総督が台湾に残した最大の遺産は明治三十一年律令第二四号「匪徒刑罰令」で、未遂犯も本刑を科す(第三条)という過酷なものだった。
〔匪徒刑罰令〕
第一条 何等ノ目的ヲ問ワス暴行又ハ脅迫ヲ以テ其目的ヲ達スル為多衆結合スルヲ匪徒ノ罪ト為シ左ノ区別ニ従テ処断ス
一、首魁及教唆者ハ死ニ処ス
二、謀議ニ参与シ又ハ指揮ヲ為シタル者ハ有期徒刑又ハ重懲役ニ処ス
三、附和随従シ又ハ雑役ニ服シタル者ハ有期徒刑又ハ重懲役ニ処ス
第二条 前条第三号ニ記載シタル匪徒左ノ所為アルトキハ死刑ニ処ス
一、官吏又ハ軍隊ニ抗敵シタルトキ
二、火ヲ放テ建造物汽車船舶橋梁ヲ燒燬シ若ハ毀壞シタルトキ
三、火ヲ放テ山林田野ノ竹木穀麦又ハ露積シタル柴草(さいそう)其他ノ物件ヲ燒燬シタルトキ
四、鉄道又ハ其標識灯台又ハ浮標ヲ毀壞シ汽車船舶往来ノ危険ヲ生セシメタルトキ
五、郵便電信及電話ノ用ニ供スル物件ヲ毀壞シ又ハ其他ノ方法ヲ以テ其交通ノ妨害ヲ生セシメタルトキ
六、人ヲ殺傷シ又ハ婦女ヲ強姦シタルトキ
七、人ヲ略取シ又ハ財産ヲ略奪シタルトキ
第三条 前条ノ罪ハ未遂犯罪ノ時ニ於テ仍本刑ヲ科ス
第四条 兵器弾薬船舶金殻其他ノ物件ヲ資給シ若ハ会合ノ場所ヲ給与シ又ハ其他ノ行為ヲ以テ匪徒ヲ幇助シタル者ハ死刑又ハ無期徒刑ニ処ス
第五条 匪徒ヲ蔵匿シ又ハ隠避セシメ又ハ匪徒ノ罪ヲ免カレシメンコトヲ図リタル者ハ有期徒刑又ハ重懲役ニ処ス
第六条 本令ノ罪ヲ犯シタル者官ニ自首シタルトキハ情状ニ依リ其刑ヲ軽減シ又ハ全免ス本刑ヲ免シタルトキハ五年以下ノ監視ニ附ス
第七条 本令ニ於テ罰スヘキ所為ハ其本令施行前ニ係ルモノ仍本令ニ依テ之ヲ処断ス
高等法院長、高野孟矩の裁定
台湾を日本が領有した当初の総督府官吏は腐敗していた。「当時に於ける官紀の頽廃に就いては之を史上に遺すに忍びず…、されども当時の官吏の官紀の頽廃し居りたるは蔽ふべからざる事実にして…、概ね是等の弊因は当時台湾官界に於ける三大疑獄事件(通信局、財務局、鳳山県等の収賄事件をいう)の如き醜果を醸したりき」(『台湾統治史』南国出版協会刊)
この腐敗に立ち上がったのが、台湾高等法院長兼民政局法務部長高野孟矩である。苦学して裁判官になった高野は、その才能を見込まれて娘を嫁にと司法大臣芳川顕正の要請を断った硬骨漢として台湾には伝わっている。明治二十九年四月、台湾総督府法院条例の発布によって、台湾の裁判所は高等法院・覆審院・地方法院の三級制をとり、高野は裁判所の最高ポストの高等法院長であった。
百鬼夜行の台湾官界で、高野は容赦なく摘発した。高等官十数人が逮捕された。勅任官で家宅捜索を受けた者もある。上京中の水野民政局長の逮捕も言われた。
「児玉・後藤」コンビには台湾官界の綱紀粛正の任があった。