
前回、佐々木安五郎の名を挙げたのは、彼が台湾へ、いや台湾総督府に優秀な人材を集めようと後藤新平が画策していると聞き知り、「佐々木網」を張って、新渡戸稲造を網にかけたという説を成す人物がいるからだ。新渡戸稲造は札幌農学校教授を務めていたとき、重度の神経症に陥り、ベルツ博士の勧めで転地療養をすることになった。
明治三十(一八九七)年十月二日、札幌農学校を退任して群馬県伊香保温泉を転地療養の地とした。療養中に『農業本論』を世に問い、続いて『農業発達史』を発行して明治三十二(一八九九)年三月二十七日、日本最初の農学博士の学位を受けた。
ここに、世に評価される農政学の新渡戸稲造が誕生する。その新渡戸稲造を日本の領地となった台湾に生かそうと思ったのは後藤新平である。当時の農商務大臣曽根荒助名で台湾総督府勤務を求める手紙が新渡戸稲造のもとに届いた。
明治三十二年七月末、伊香保温泉の地からカリフォルニア州南部のモントレーに移動し、ここで療養生活をしていた。宿泊はホテル「デルモンテ」であった。現在、そのホテルは米海軍大学の研修施設(大学院)となっている。曽根荒助の台湾勤務要請を受けた後に、後藤新平の台湾勤務を求める長文の要請が続いた。

後藤新平に新渡戸稲造の台湾勤務を薦めたのは、菊池武夫(一八五四~一九一二年)という。研究家の通説でもある。菊池武夫は盛岡出身。盛岡藩校作人館で那珂通世の指導を受け、大学南校(現東京大学)に学び、卒業後、ボストン大学に留学し、明治十三年十月に帰国、翌年十二月に東京大学講師。明治十九年に穂積陳重、元田肇らと一緒に中央大学の前身の法律学校を創立した。明治二十一年には鳩山和夫らとともに日本初の法学博士となっている。東京弁護士会長、貴族院議員も歴任している。菊池武夫の妹すみ子は稲造の次兄道郎に嫁したが、道郎は明治十七年四月十一日二十五歳の若さで死去した。菊池武夫と新渡戸稲造とはこのような縁があって後藤新平に稲造の台湾総督府勤務を推薦したと解するのが自然であろう。佐々木安五郎という名の人物が「稲造の台湾勤務推薦者」というのは「杉森久英説」である。
事業は人なり-新平の執念実る
新渡戸稲造が若かりし頃に米欧に学び、留学を終えて帰朝し、教師になったのは札幌農学校である。明治二十八(一八九五)年には、札幌農学校教授、同校舎監を勤めていた。明治三十(一八九七)年十月二日、退任して転地療養に入った。感心するのは療養中に彼の名作『農業本論』を出版し、その序に「亡き母に捧ぐ」としたことである。母勢喜に励まされて育ち、お陰で『農業本論』を世に送ったという稲造の心が込められている。やがて、療養地を北米大陸に変えようと決め、目指したのはカナダのビクトリアである。もっと温暖なところにしようと南下し、カリフォルニア・モントレーに落ち着く。ようやく病がよくなり、帰国の準備をしていたが、台湾へ来てくれないかという農商務大臣曽根荒助の名を借りた後藤新平の要請があった。
初めは断り続けた。それを断りきれないように要請が続いた。札幌農学校では、終生の親友宮部金吾(植物学の大家)らが新渡戸稲造の帰国を待っている。後藤新平はそれを分かりつつ台湾総督府勤務を勧める。
新渡戸稲造もついに折れた。後藤新平に学ぶべきは、見込んだ人材は必ず手に入れる執念である。明治三十二年十二月二十三日付で稲造は宮部金吾に手紙を書いた。
「台湾よりの招聘(しょうへい)を断り、札幌よりの懇篤なる勧誘を受諾することに決し、明春二月桑港出帆の便船に帰朝する予定である」
明治三十三年二月七日、宮部金吾宛書簡
「其後一身上の大変動あり、それは台湾よりの招請益々急を加へ曽根氏より数回の手紙を受け、又後藤氏より長文の電報を以て熱誠溢るる勧誘あり。辞するに言葉なき状態…」
事業は人なり-。新平はその一心で台湾経営に臨んだことをうかがわせる。台湾の基盤を固めるには農業の発展を図らなければならない。それを担うに足る人物を選べば新渡戸稲造しかないというのが新平の狙いである。新渡戸稲造は宮部金吾との約束を果たすことなく、台湾に渡ることになるが、稲造は札幌農学校を卒業する際に将来の希望として甜菜(てんさい)(砂糖大根)をやりたいと述べている。形を変えて、台湾で甘蔗(かんしょ)(さとうきび)の栽培指導をし、台湾農業の核にする。
日本精神の真髄を台湾治世に
新平は新渡戸稲造と同時期に周辺に人材を集めた。汚職官吏を追放し、代わりに祝辰巳、中村是公、長尾半平、長谷川謹介、高木友枝、岡松参太郎、宮尾舜治らが主な者で、名を成している。後藤新平の趣味は、人材集めと言ってもいいだろう。
特に新渡戸稲造を台湾に引き寄せたのは後藤新平の達眼であった。
新渡戸稲造はカリフォルニア・モントレーで療養生活を送りながら名著『BUSHIDO THE SOUL OF JAPAN』(武士道・日本の心)を明治三十三(一九〇〇)年一月、フィラデルフィアの出版社から出版したばかりであった。台湾治世に全きを期すためにも、日本精神の真髄を伝える使者が必要であると思い、新渡戸稲造に白羽の矢を立てたものと考えられる。
そこまでの深慮遠謀はなかったであろうが、台湾の元総統李登輝さんが『「武士道」解題』を出版し、平成十九年五月には水沢を訪れたことを顧みて、その感を深くするのである。
新渡戸稲造は若いころ、父親十次郎の弟で花巻の太田家に養子入りした太田時敏の養子になったことがある。ドイツ留学時代の明治二十二(一八八九)年四月六日、長兄七郎が四十七歳で死去し、太田姓から新渡戸姓に復帰する。
米欧留学は、行きは「太田」姓で、帰りは「新渡戸」と姓が変わる。著書『武士道』の為書には「過去を敬うことならびに 武士の徳行を慕うことを 私に教えたる 我が愛する叔父 太田時敏に この小著を ささぐ」とある。
明治三十(一八九七)年十月二日、札幌農学校を退任して群馬県伊香保温泉を転地療養の地とした。療養中に『農業本論』を世に問い、続いて『農業発達史』を発行して明治三十二(一八九九)年三月二十七日、日本最初の農学博士の学位を受けた。
ここに、世に評価される農政学の新渡戸稲造が誕生する。その新渡戸稲造を日本の領地となった台湾に生かそうと思ったのは後藤新平である。当時の農商務大臣曽根荒助名で台湾総督府勤務を求める手紙が新渡戸稲造のもとに届いた。
明治三十二年七月末、伊香保温泉の地からカリフォルニア州南部のモントレーに移動し、ここで療養生活をしていた。宿泊はホテル「デルモンテ」であった。現在、そのホテルは米海軍大学の研修施設(大学院)となっている。曽根荒助の台湾勤務要請を受けた後に、後藤新平の台湾勤務を求める長文の要請が続いた。

新渡戸を台湾総督府に推薦した菊池武夫(盛岡市先人記念館提供)
事業は人なり-新平の執念実る
新渡戸稲造が若かりし頃に米欧に学び、留学を終えて帰朝し、教師になったのは札幌農学校である。明治二十八(一八九五)年には、札幌農学校教授、同校舎監を勤めていた。明治三十(一八九七)年十月二日、退任して転地療養に入った。感心するのは療養中に彼の名作『農業本論』を出版し、その序に「亡き母に捧ぐ」としたことである。母勢喜に励まされて育ち、お陰で『農業本論』を世に送ったという稲造の心が込められている。やがて、療養地を北米大陸に変えようと決め、目指したのはカナダのビクトリアである。もっと温暖なところにしようと南下し、カリフォルニア・モントレーに落ち着く。ようやく病がよくなり、帰国の準備をしていたが、台湾へ来てくれないかという農商務大臣曽根荒助の名を借りた後藤新平の要請があった。
初めは断り続けた。それを断りきれないように要請が続いた。札幌農学校では、終生の親友宮部金吾(植物学の大家)らが新渡戸稲造の帰国を待っている。後藤新平はそれを分かりつつ台湾総督府勤務を勧める。
新渡戸稲造もついに折れた。後藤新平に学ぶべきは、見込んだ人材は必ず手に入れる執念である。明治三十二年十二月二十三日付で稲造は宮部金吾に手紙を書いた。
「台湾よりの招聘(しょうへい)を断り、札幌よりの懇篤なる勧誘を受諾することに決し、明春二月桑港出帆の便船に帰朝する予定である」
明治三十三年二月七日、宮部金吾宛書簡
「其後一身上の大変動あり、それは台湾よりの招請益々急を加へ曽根氏より数回の手紙を受け、又後藤氏より長文の電報を以て熱誠溢るる勧誘あり。辞するに言葉なき状態…」
事業は人なり-。新平はその一心で台湾経営に臨んだことをうかがわせる。台湾の基盤を固めるには農業の発展を図らなければならない。それを担うに足る人物を選べば新渡戸稲造しかないというのが新平の狙いである。新渡戸稲造は宮部金吾との約束を果たすことなく、台湾に渡ることになるが、稲造は札幌農学校を卒業する際に将来の希望として甜菜(てんさい)(砂糖大根)をやりたいと述べている。形を変えて、台湾で甘蔗(かんしょ)(さとうきび)の栽培指導をし、台湾農業の核にする。
日本精神の真髄を台湾治世に
新平は新渡戸稲造と同時期に周辺に人材を集めた。汚職官吏を追放し、代わりに祝辰巳、中村是公、長尾半平、長谷川謹介、高木友枝、岡松参太郎、宮尾舜治らが主な者で、名を成している。後藤新平の趣味は、人材集めと言ってもいいだろう。
特に新渡戸稲造を台湾に引き寄せたのは後藤新平の達眼であった。
新渡戸稲造はカリフォルニア・モントレーで療養生活を送りながら名著『BUSHIDO THE SOUL OF JAPAN』(武士道・日本の心)を明治三十三(一九〇〇)年一月、フィラデルフィアの出版社から出版したばかりであった。台湾治世に全きを期すためにも、日本精神の真髄を伝える使者が必要であると思い、新渡戸稲造に白羽の矢を立てたものと考えられる。
そこまでの深慮遠謀はなかったであろうが、台湾の元総統李登輝さんが『「武士道」解題』を出版し、平成十九年五月には水沢を訪れたことを顧みて、その感を深くするのである。
新渡戸稲造は若いころ、父親十次郎の弟で花巻の太田家に養子入りした太田時敏の養子になったことがある。ドイツ留学時代の明治二十二(一八八九)年四月六日、長兄七郎が四十七歳で死去し、太田姓から新渡戸姓に復帰する。
米欧留学は、行きは「太田」姓で、帰りは「新渡戸」と姓が変わる。著書『武士道』の為書には「過去を敬うことならびに 武士の徳行を慕うことを 私に教えたる 我が愛する叔父 太田時敏に この小著を ささぐ」とある。