
新平は台湾で阿川光裕と会って、真っ先に相談相手に選んだ。両者の話で浮かび上がったのは三代目の総督乃木希典評である。彼の評価は悪かった。土匪討伐ばかりで何の仕事もやらなかった。後藤新平はそこに重きを置いて、治政を行おうと考えたであろう。
明治三十一(一八九八)年三月二十八日、台湾に児玉源太郎総督、後藤新平民政局長(のちに民政長官)が着任し、阿川光裕から指摘を受けた日本人官吏の改革に着手した。改革の着手として吏員の諭旨免官非職解雇を行った。
解雇を実施したが、よき人物は台湾総督事務嘱託として残した。ここは後藤新平の着眼のいいところである。今日の日本の行政改革に当てはめると、一様に人員整理の対象にして、使えるものだけを嘱託にして残すという寸法だろうか。
人員整理対象になった者は、日本へ帰ったというのが大部分だったが、嘱託として残留した岩手関係者の筆頭で、有名人に伊能嘉矩がいる。遠野の出身である。台湾を知ろうとする者は台湾人はもとより日本人も伊能嘉矩に学ばなければならないと評価されている。
事務統括と『台湾文化志』

後藤新平が台湾総督府民政局長に就任した二年後、明治三十三(一九〇〇)年十月三十日に「台湾慣習研究会」を発会させた。会長に児玉源太郎が就任したが、明治三十四年十月には勅令第百十六号によって台湾慣習研究会規則が発布され、会長に後藤新平が発令された。
後藤新平は「調査の後藤」と言われた。その土地の慣習を調べ、治政に生かすことを目標とした。阿川光裕の意見を生かし、治政に生かそうということである。伊能嘉矩は同研究会の幹事に任ぜられた。伊能は慶応三(一八六七)年生まれである。明治七(一八七四)年二月二日、八歳の時に小学校に入学、「悪事戒書」(未刊)を著す。著書に従事する起源である。
明治十三(一八八〇)年四月三十日、大試験で小学校全科を卒業、十三歳。
明治十七(一八八四)年一月『三村地誌略』を著す。著書出版の初めで直後『征清論』を著す。三月、横田小学校助手となる。
明治十九(一八八六)年十二月、給費推挙生として岩手県立師範学校に入学。明治二十二(一八八九)年三月四日、師範学校当局に反抗し、校規を紊乱(びんらん)したとして退学させられ、東京に向かう。以後は独学、その間著書多数。明治二十七(一八九四)年八月一日、日清戦争宣戦布告。明治二十八年四月十七日、日清講和成る。
戦争が終わり十一月十日、初めて台湾に入ったが、台湾総督府嘱託を命ぜられる。月俸二十円。明治三十(一八九七)年一月八日、臨時旧慣調査掛が総督府に置かれる。
それが児玉総督時代になって、台湾慣習研究会となり、明治三十四(一九〇一)年十月になって勅令による台湾慣習研究会となった。
初めは児玉源太郎が会長、勅令による組織になって後藤新平が会長を務める。その下で幹事・事務局長として事務的なことを総括したのが伊能嘉矩である。
「農」は国之本也の農の意味を解いた新渡戸稲造を台湾に招いた執念の後藤新平は、勅令によって台湾慣習研究会の地位を確固なものとし、自らが会長に就任、事務局長に同郷の伊能嘉矩を起用した。伊能嘉矩は慣習研究会発足後、明治三十五年十一月一日「台湾志」を発行したのを皮切りに次々に伊能ならではの著作を世に出す。なかでも不朽の名著と評価されているのは昭和三(一九二八)年九月二十日に発行された上中下からなる大著『台湾文化志』である。台湾を研究する者にとっては『台湾文化志』は必読の書と評されている。
岩手台湾懇話会を設立
人を育てることが第一の目標と言ったのは後藤新平の人生訓である。後藤新平の水沢、伊能嘉矩の遠野、新渡戸稲造の盛岡を結び、国際交流の実を上げるべきだということで岩手台湾懇話会を設立したのは平成十三(二〇〇一)年二月十四日のことである。
設立発起人は岩手医大理事長大堀勉、盛岡市長太田大三、水沢市長後藤晨、遠野市長菊池正の四氏ら。盛岡出身の原敬は、台湾総督府の総督には民間人を据えるべきだという持論を一貫して変えなかった。大正時代に入り、首相に就任してそれを実現した。
次に三田定則である。台北帝国大学の医学部を創設し、総長も務めた。岩手医専の二代目校長の後、岩手医専が学制改革で新制大学となり初代岩手医大学長に就任した。岩手医学専門学校は昭和三年に創設された。往年は多くの台湾留学生を受け入れていた。
後藤新平は民政長官として、台湾の基盤整備に尽力した。蒋介石時代には強権政治が続いた。李登輝さんが初めて台湾人による台湾総督に就任して明らかになったのは、児玉源太郎、後藤新平の二人並んだ銅像がひそかに隠されていて、出てきたことである。
日本が台湾を領有した時代は昭和二十年八月十五日の敗戦で終止符を打った。それとともに台北帝国大学は、台湾大学として台湾に引き継がれた。菊池正遠野市長時代に台湾大学は「伊能嘉矩の記念展示会」を大々的に開催、菊池市長を招待して、民俗学の伊能を讃えた。
後藤新平は若くして医学を修め、医療行政の道に入り、日清戦争後、台湾の「民政」の責任者となった。縦横に腕を振るわせたのは児玉源太郎である。児玉は理解力の早いことで知られている。
後藤新平にとっては、児玉源太郎に仕え、仕事をやったことが、生涯にとって最も充実した期間だったろう。
児玉源太郎については新渡戸稲造のメリー夫人がこういう逸話を残している。「出会った人のうち一番頭脳が明晰だったのは、児玉源太郎とミス・シドモアであった」と。シドモア女史については後に触れよう。
明治三十一(一八九八)年三月二十八日、台湾に児玉源太郎総督、後藤新平民政局長(のちに民政長官)が着任し、阿川光裕から指摘を受けた日本人官吏の改革に着手した。改革の着手として吏員の諭旨免官非職解雇を行った。
解雇を実施したが、よき人物は台湾総督事務嘱託として残した。ここは後藤新平の着眼のいいところである。今日の日本の行政改革に当てはめると、一様に人員整理の対象にして、使えるものだけを嘱託にして残すという寸法だろうか。
人員整理対象になった者は、日本へ帰ったというのが大部分だったが、嘱託として残留した岩手関係者の筆頭で、有名人に伊能嘉矩がいる。遠野の出身である。台湾を知ろうとする者は台湾人はもとより日本人も伊能嘉矩に学ばなければならないと評価されている。
事務統括と『台湾文化志』

台湾時代の伊能嘉矩
後藤新平は「調査の後藤」と言われた。その土地の慣習を調べ、治政に生かすことを目標とした。阿川光裕の意見を生かし、治政に生かそうということである。伊能嘉矩は同研究会の幹事に任ぜられた。伊能は慶応三(一八六七)年生まれである。明治七(一八七四)年二月二日、八歳の時に小学校に入学、「悪事戒書」(未刊)を著す。著書に従事する起源である。
明治十三(一八八〇)年四月三十日、大試験で小学校全科を卒業、十三歳。
明治十七(一八八四)年一月『三村地誌略』を著す。著書出版の初めで直後『征清論』を著す。三月、横田小学校助手となる。
明治十九(一八八六)年十二月、給費推挙生として岩手県立師範学校に入学。明治二十二(一八八九)年三月四日、師範学校当局に反抗し、校規を紊乱(びんらん)したとして退学させられ、東京に向かう。以後は独学、その間著書多数。明治二十七(一八九四)年八月一日、日清戦争宣戦布告。明治二十八年四月十七日、日清講和成る。
戦争が終わり十一月十日、初めて台湾に入ったが、台湾総督府嘱託を命ぜられる。月俸二十円。明治三十(一八九七)年一月八日、臨時旧慣調査掛が総督府に置かれる。
それが児玉総督時代になって、台湾慣習研究会となり、明治三十四(一九〇一)年十月になって勅令による台湾慣習研究会となった。
初めは児玉源太郎が会長、勅令による組織になって後藤新平が会長を務める。その下で幹事・事務局長として事務的なことを総括したのが伊能嘉矩である。
「農」は国之本也の農の意味を解いた新渡戸稲造を台湾に招いた執念の後藤新平は、勅令によって台湾慣習研究会の地位を確固なものとし、自らが会長に就任、事務局長に同郷の伊能嘉矩を起用した。伊能嘉矩は慣習研究会発足後、明治三十五年十一月一日「台湾志」を発行したのを皮切りに次々に伊能ならではの著作を世に出す。なかでも不朽の名著と評価されているのは昭和三(一九二八)年九月二十日に発行された上中下からなる大著『台湾文化志』である。台湾を研究する者にとっては『台湾文化志』は必読の書と評されている。
岩手台湾懇話会を設立
人を育てることが第一の目標と言ったのは後藤新平の人生訓である。後藤新平の水沢、伊能嘉矩の遠野、新渡戸稲造の盛岡を結び、国際交流の実を上げるべきだということで岩手台湾懇話会を設立したのは平成十三(二〇〇一)年二月十四日のことである。
設立発起人は岩手医大理事長大堀勉、盛岡市長太田大三、水沢市長後藤晨、遠野市長菊池正の四氏ら。盛岡出身の原敬は、台湾総督府の総督には民間人を据えるべきだという持論を一貫して変えなかった。大正時代に入り、首相に就任してそれを実現した。
次に三田定則である。台北帝国大学の医学部を創設し、総長も務めた。岩手医専の二代目校長の後、岩手医専が学制改革で新制大学となり初代岩手医大学長に就任した。岩手医学専門学校は昭和三年に創設された。往年は多くの台湾留学生を受け入れていた。
後藤新平は民政長官として、台湾の基盤整備に尽力した。蒋介石時代には強権政治が続いた。李登輝さんが初めて台湾人による台湾総督に就任して明らかになったのは、児玉源太郎、後藤新平の二人並んだ銅像がひそかに隠されていて、出てきたことである。
日本が台湾を領有した時代は昭和二十年八月十五日の敗戦で終止符を打った。それとともに台北帝国大学は、台湾大学として台湾に引き継がれた。菊池正遠野市長時代に台湾大学は「伊能嘉矩の記念展示会」を大々的に開催、菊池市長を招待して、民俗学の伊能を讃えた。
後藤新平は若くして医学を修め、医療行政の道に入り、日清戦争後、台湾の「民政」の責任者となった。縦横に腕を振るわせたのは児玉源太郎である。児玉は理解力の早いことで知られている。
後藤新平にとっては、児玉源太郎に仕え、仕事をやったことが、生涯にとって最も充実した期間だったろう。
児玉源太郎については新渡戸稲造のメリー夫人がこういう逸話を残している。「出会った人のうち一番頭脳が明晰だったのは、児玉源太郎とミス・シドモアであった」と。シドモア女史については後に触れよう。