
後藤新平は人集めの名人だったと評されている。台湾は日清戦争の結果、日本が新領土として清国から割譲された土地である。面積は三万六千平方キロメートル、九州の面積三万六千余平方キロメートルに匹敵する。現在の台湾の人口は二千二百万人といわれるが、当時は五百万人という。
この土地を経営し発展させるため、殖産興業を起こさなければならない。その中核となる農業振興を図るため、設計者というべき人材を探さなければならないと着目して、新渡戸稲造を招いた。新渡戸稲造は札幌農学校の教授を務めていたが、重い神経性の病気にかかり、群馬の伊香保温泉、カリフォルニアのモントレーで転地療養の日々を送っていた。
病気療養中であったにもかかわらず、稲造は終生の名著といわれる『農業本論』と英文『武士道』を世に送った。日本の農学博士第一号を花巻出身の佐藤昌介らとともに授けられる。農政学の新渡戸稲造の名が知られるようになる。ならば『農業本論』を日本の新領土となった台湾で具体的に展開してもらおうというのが後藤新平であったと考える。
阿川光裕から、三代目の台湾総督乃木希典は土匪退治ばかりに専念して何もしなかったと報告されていたこともあって、その報告を真正面から受け止め、農業指導者を求めれば新渡戸稲造しかないと心に決めて台湾総督府勤務を承諾させた。狙った人材は「くどき落とす」これが新平の真髄だった。
台湾の糖業発展をめざして
新渡戸稲造は、明治三十四(一九〇一)年二月二日に台湾総督府技師に任命される。翌年六月十五日には臨時台湾糖務局長、明治三十七年六月、京都帝国大学法科大学教授に就任するが、それまで三年四カ月、台湾勤務をして、以後一カ月に一回は嘱託として「糖業改良意見書」に基づく農業指導に当たる。これが台湾を世界的な砂糖生産地に導き、新渡戸稲造は学者だけでなく、実践家であったとされる背景である。
新渡戸稲造と『農業本論』から台湾に稲造を招くまでの後藤新平の執念である。台湾総督府勤務を辞めて京都帝大教授になった新渡戸稲造を待っていたのは明治天皇の参内要請だった。これまで後藤新平と新渡戸稲造の関係は述べてきたが、明治天皇と新渡戸稲造について触れておかねばならない。
前回紹介したジョージ・オオシロ氏は新渡戸稲造研究家だった。彼とはブリティッシュ・コロンビア大学の助手時代からの付き合いだった。先年、六十代でなくなった。桜美林大学で国際関係学を教えていた。ハワイの出身。昭和五十八年五月、私が初めて太平洋を渡りバンクーバーに着いた時に迎えてくれたのがきっかけで知り合った。残念である。
後藤新平は台湾農業の振興を図るため、農学博士の新渡戸稲造を台湾に呼び、糖業発展の基礎を築かせた。それを見定め、今度は京都帝大法科大学学長織田萬に依頼して、法学博士授与の条件付きで京都帝大教授に新渡戸稲造を送った。
京都帝大教授に在任中、明治天皇は新渡戸稲造に参内を求め、京都から東京・小日向の自宅に戻り、明治三十八年四月十二日、稲造はメリー夫人とともに明治天皇に拝謁した。そのことを教えてくれたのがジョージ・オオシロ氏だった。
和平工作実らせた「武士道」
日本が明治三十七(一九〇四)年二月十日に対露宣戦布告して二週間後、男爵金子堅太郎は二人の随員を伴って横浜港からサイベリア号に乗って米国へ向かった。日露戦争の目的を広く米国政界、財界へ説明し、理解を求めるための渡米である。
今日の日米関係を思い、日露戦争時の指導者に学ぶべきことは何かを考える参考のために金子堅太郎の訪米日程コースを顧みたい。
金子はホノルル経由で明治三十七年三月十一日にサンフランシスコに着き、シカゴ、ニューヨークを経てワシントンDC入りしたのが三月二十五日。翌日午前、ヘイ国務長官、ムーデ海軍長官へ訪米の挨拶をし、午後、高平小五郎駐米公使(一関出身)を伴って、大統領セオドア・ルーズベルトを表敬訪問した。
金子とルーズベルトはハーバード大学の同窓生である。日露戦争が始まるや間髪を入れずに金子の和平工作が開始される。米大統領を日本側に引き寄せようとの狙いである。
明治三十七年三月二十八日、ホワイト・ハウスでルーズベルトと金子の第二回会談の際、日本人の性格、精神教育の原動力になっているものは何かと尋ねられた金子は「『武士道』を読んだか…」と問い返した。「ノー」とルーズベルトが言った。随行の高平小五郎が持参していた英文『武士道』を進呈した。
金子は六月六日、ホワイト・ハウスから三度目の招待を受けて昼食会に臨んだ。席上、ルーズベルトは金子と高平を前にして『武士道』の読後感を伝えた。
「先般拝受セシ書籍中、『武士道』ト称スル書ハ尤モ克ク日本人民ノ精神ヲ写シ得タリ。予ハ此書ヲ読デ始メテ日本国民ノ徳性ヲ知悉スルコトヲ得タレバ、直ニ書肆ニ命ジ三十部ヲ購求シ之ヲ知友ニ頒布シ閲読セシメタリ。又予ハ、五人ノ子供ニ各々一部ヲ配布シ、日常此書ヲ熟読シテ日本人ノ如ク高尚優美ナル性格ト誠実剛毅ナル精神トヲ涵養スベシト申付ケタリ。而シテ書中、日本人ガ尊信スル天皇陛下ニ代ルベキモノ我共和国ニ之レナキガ為ニ、先ヅ北米合衆国ノ国旗ヲ以テ之ニ充ツベシト談ジ置キタリ…」(日本外交文書・日露戦争)
日露戦争の早期解決を熱望し、米国側の動向に関心を寄せていた明治天皇は、米大統領の反応に好感して新渡戸稲造に参内を求めたのであった。東郷平八郎率いる日本連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃破したのは、明治三十八年五月二十七日である。これで日露戦争の日本勝利は決定する。
しかし、明治天皇はそれ以前の米国の動向を伺う『武士道』としてその価値を重くみていた。
この土地を経営し発展させるため、殖産興業を起こさなければならない。その中核となる農業振興を図るため、設計者というべき人材を探さなければならないと着目して、新渡戸稲造を招いた。新渡戸稲造は札幌農学校の教授を務めていたが、重い神経性の病気にかかり、群馬の伊香保温泉、カリフォルニアのモントレーで転地療養の日々を送っていた。
病気療養中であったにもかかわらず、稲造は終生の名著といわれる『農業本論』と英文『武士道』を世に送った。日本の農学博士第一号を花巻出身の佐藤昌介らとともに授けられる。農政学の新渡戸稲造の名が知られるようになる。ならば『農業本論』を日本の新領土となった台湾で具体的に展開してもらおうというのが後藤新平であったと考える。
阿川光裕から、三代目の台湾総督乃木希典は土匪退治ばかりに専念して何もしなかったと報告されていたこともあって、その報告を真正面から受け止め、農業指導者を求めれば新渡戸稲造しかないと心に決めて台湾総督府勤務を承諾させた。狙った人材は「くどき落とす」これが新平の真髄だった。
台湾の糖業発展をめざして
新渡戸稲造は、明治三十四(一九〇一)年二月二日に台湾総督府技師に任命される。翌年六月十五日には臨時台湾糖務局長、明治三十七年六月、京都帝国大学法科大学教授に就任するが、それまで三年四カ月、台湾勤務をして、以後一カ月に一回は嘱託として「糖業改良意見書」に基づく農業指導に当たる。これが台湾を世界的な砂糖生産地に導き、新渡戸稲造は学者だけでなく、実践家であったとされる背景である。
新渡戸稲造と『農業本論』から台湾に稲造を招くまでの後藤新平の執念である。台湾総督府勤務を辞めて京都帝大教授になった新渡戸稲造を待っていたのは明治天皇の参内要請だった。これまで後藤新平と新渡戸稲造の関係は述べてきたが、明治天皇と新渡戸稲造について触れておかねばならない。
前回紹介したジョージ・オオシロ氏は新渡戸稲造研究家だった。彼とはブリティッシュ・コロンビア大学の助手時代からの付き合いだった。先年、六十代でなくなった。桜美林大学で国際関係学を教えていた。ハワイの出身。昭和五十八年五月、私が初めて太平洋を渡りバンクーバーに着いた時に迎えてくれたのがきっかけで知り合った。残念である。
後藤新平は台湾農業の振興を図るため、農学博士の新渡戸稲造を台湾に呼び、糖業発展の基礎を築かせた。それを見定め、今度は京都帝大法科大学学長織田萬に依頼して、法学博士授与の条件付きで京都帝大教授に新渡戸稲造を送った。
京都帝大教授に在任中、明治天皇は新渡戸稲造に参内を求め、京都から東京・小日向の自宅に戻り、明治三十八年四月十二日、稲造はメリー夫人とともに明治天皇に拝謁した。そのことを教えてくれたのがジョージ・オオシロ氏だった。
和平工作実らせた「武士道」
日本が明治三十七(一九〇四)年二月十日に対露宣戦布告して二週間後、男爵金子堅太郎は二人の随員を伴って横浜港からサイベリア号に乗って米国へ向かった。日露戦争の目的を広く米国政界、財界へ説明し、理解を求めるための渡米である。
今日の日米関係を思い、日露戦争時の指導者に学ぶべきことは何かを考える参考のために金子堅太郎の訪米日程コースを顧みたい。
金子はホノルル経由で明治三十七年三月十一日にサンフランシスコに着き、シカゴ、ニューヨークを経てワシントンDC入りしたのが三月二十五日。翌日午前、ヘイ国務長官、ムーデ海軍長官へ訪米の挨拶をし、午後、高平小五郎駐米公使(一関出身)を伴って、大統領セオドア・ルーズベルトを表敬訪問した。
金子とルーズベルトはハーバード大学の同窓生である。日露戦争が始まるや間髪を入れずに金子の和平工作が開始される。米大統領を日本側に引き寄せようとの狙いである。
明治三十七年三月二十八日、ホワイト・ハウスでルーズベルトと金子の第二回会談の際、日本人の性格、精神教育の原動力になっているものは何かと尋ねられた金子は「『武士道』を読んだか…」と問い返した。「ノー」とルーズベルトが言った。随行の高平小五郎が持参していた英文『武士道』を進呈した。
金子は六月六日、ホワイト・ハウスから三度目の招待を受けて昼食会に臨んだ。席上、ルーズベルトは金子と高平を前にして『武士道』の読後感を伝えた。
「先般拝受セシ書籍中、『武士道』ト称スル書ハ尤モ克ク日本人民ノ精神ヲ写シ得タリ。予ハ此書ヲ読デ始メテ日本国民ノ徳性ヲ知悉スルコトヲ得タレバ、直ニ書肆ニ命ジ三十部ヲ購求シ之ヲ知友ニ頒布シ閲読セシメタリ。又予ハ、五人ノ子供ニ各々一部ヲ配布シ、日常此書ヲ熟読シテ日本人ノ如ク高尚優美ナル性格ト誠実剛毅ナル精神トヲ涵養スベシト申付ケタリ。而シテ書中、日本人ガ尊信スル天皇陛下ニ代ルベキモノ我共和国ニ之レナキガ為ニ、先ヅ北米合衆国ノ国旗ヲ以テ之ニ充ツベシト談ジ置キタリ…」(日本外交文書・日露戦争)
日露戦争の早期解決を熱望し、米国側の動向に関心を寄せていた明治天皇は、米大統領の反応に好感して新渡戸稲造に参内を求めたのであった。東郷平八郎率いる日本連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃破したのは、明治三十八年五月二十七日である。これで日露戦争の日本勝利は決定する。
しかし、明治天皇はそれ以前の米国の動向を伺う『武士道』としてその価値を重くみていた。