

後藤新平が「箸同盟」を提案し、受け入れた袁世凱
袁世凱は李鴻章の後継者として中国を各国の侵略からいかに守るかに心を砕いていた政治家である。
後藤新平が袁世凱に会う前の四月二十日、清国政府は満州(東三省)の政治改革に着手して総督に徐世昌を、巡撫使に唐紹儀を任命している。日本が南満州鉄道を設立して、積極的に満州の経営に乗り出そうとする気構えをみせたことに対抗して清国の満州における支配権を保持し、利権を回復しようとの意図から出たものである。
徐世昌と唐紹儀は、任地へ出発前に天津に袁世凱を訪れ、満州における施政方針について協議した。主な点は次のようだった。
一、満州には出来るだけ警察制度を完備して匪賊の蠢動(しゅんどう)を押え、治安の乱れに付け込んで干渉しようと隙を狙っている某国(日本)に口実を与えないこと。
一、満州における電信、電話、郵便の発達をはかることを急務とする。日本に先手を打たれたが最後、清国は目と耳を奪われたも同然である。
一、東清鉄道(満鉄)は日本に奪われてしまったが、これと併行して流れる遼河を浚渫(しゅんせつ)すれば運輸の手段を確保することができよう。
一、日露両国の対等の立場を守り、内部の安寧秩序を保つには、まずそれにふさわしい兵力を持たねばならぬ。満州においては少なくとも六個鎮(六個師団)を新設し、なおこれまでの各兵をことごとく新たに編成し、訓練し直す必要がある。
一、奉天は満州の政治的要地にある。外国人に経営される交通機関(たとえば満鉄)によらずして、北京及び北洋と連絡を保ち得べきこと。
これを通読すれば明らかに看取出来るのは清国があらゆる点において満州における日本の圧迫をはね返し、満州の国権を守り抜こうと決意していることだ。
後藤新平は袁世凱に会って提案した。それは「箸同盟」の構想である。日常、箸を使って食事するのは中国、日本等である。箸を使う国が「箸同盟」の下に協力し合おうじゃないかというのが新平の意図である。袁世凱は賛成したが、酒席における儀礼的な挨拶だった。後藤新平は満鉄を活用して満州の野を開拓する志だったが、それは簡単ではないことを思わざるを得なかった。
後藤新平は満州に来てみて、色々なことが分かった。
日本は日露戦争では勝ったが、実態は息切れしてヘトヘトになった。ロシアは負けたと言っても余力を残して悠々としている。もう一度立ち上がったら、その時こそ日本の最大の危機となろう。後藤新平には早晩起こり得る可能性のあるのは、第二の日露戦争でなく、第二の日清戦争である。新平は着任早々、上下にみなぎる国権回復、日本排斥の空気に驚いた。日中戦争の予見であり、新平の没後に現実のものとなる。
伊藤博文に会う新平の目的
後藤新平は明治四十年九月二十七日、北京から帰国後、伊藤博文に会うため安芸の宮島に在る白雲洞旅館に入った。翌二十八日、厳島神社の参拝を終え、午後、岩惣旅館から使いが来た。
「只今、伊藤(博文)さまがお着きになりました。御夕食を一緒になさりながらお話を聞きたいので、六時頃お出掛け下さるように…」との伝言があった。
伊藤博文は当時、韓国統監であった。新平は少し前に伊藤に手紙を出し、面会を申し入れたが、九月末に東京から京城へ帰任の途中、厳島に立ち寄る。そこで会ってもいいという返事だった。
新平は大連から東京へ出向く用事があったので、博文とすれ違いに厳島に泊まり、一晩語り合えるように日程を組み、前日から待っていた。新平の目的は世界の大勢と東洋の将来、特に対支根本策について、伊藤公に説くことだった。
新平は満鉄総裁に着任して以来、現地の状況を綿密に見て、東洋百年の計をいかにすべきかの考えがまとまり、これを伊藤博文に告げて、対外政策の基本を確立する必要があると思った。その構想を描いて、六時前に新平は岩惣旅館へ出かけた。伊藤は湯上がりの身体に宿のドテラを着て、寛いでいた。
中華民国初代の大統領
さて、新平が会った袁世凱(一八五九-一九一六年)という人物はどういう経歴だったか。中華民国初代の大統領で、河南省で生まれた。彼が初めて要職についたのは朝鮮だった。一八八五年から九四年まで総理交渉通商事務官として朝鮮に駐在し、日清戦争(一八九四-九五年)に際しては、日本の朝鮮進出を阻んで有名無実となっていた中国の宗主権を守ることに努めた。
その後、華北に戻り、与えられた軍隊を訓練して精鋭部隊に育てた。その功績で革新的な考え方の持ち主とみなされ、一八九八年、ヨーロッパ式の立憲君主政体を打ち立てようとする改革派が期待を持って接近したが、袁世凱は彼らの信頼を裏切って西太后の反改革クーデターを助けた。
後藤新平が西太后と初めに会見し、帰りに天津で袁世凱と会ったことは、満鉄事業を推進するに当たって二人の関係を重視したからに他ならない。