
文化庁の三谷室長(左)に構成資産から外れることへの憤りを示す住民=4月21日夜、一関生活改善センター
同遺跡が構成資産に正式に加わったのは、国史跡に指定された十七年三月。市内初の国史跡、平泉町外への初の構成資産拡大。登録を推進するために資産を拡大すべきとの文化庁の指導によるものだった。
経典を収める中尊寺経蔵の別当領で、鎌倉時代に地域一帯を描いたとされる二枚の絵図「陸奥国骨寺村絵図」が同寺に残る。地形が絵図とほとんど変わらないとして十八年には重要文化的景観にも選定。候補の仲間入りに当初戸惑いを隠せなかった住民も、結成した本寺地区地域づくり推進協議会を中心に登録意識を高めてきた。景観を壊さないよう現代的な圃場(ほじょう)整備もあきらめた。
それだけに再推薦の枠組みから外れたことへのショックは計り知れない。
同推進協の佐藤武雄会長は「文化庁の言うことを信じ、みんな生活を犠牲に頑張ってきた。外されることはないと思っていた」と住民の思いを代弁。市や関係団体でつくる骨寺村二十一世紀フォーラムの一員として活動している佐藤光子さん(厳美町字駒形)も「世界遺産になるのを励みにやってきた」と大きな目標を失って肩を落とす。
しかし、登録への歩みは「どこにでもある、ありふれた田舎の風景」と思っていた住民に、古里の「顕著な普遍的価値」を見直させ、目を向けさせる機会にもなった。「世界遺産登録の火を消すわけにはいかない」「地域活性化に取り組んでいくことに変わりはない」。不満を締めくくる言葉には将来的な追加登録への強い決意を感じさせた。