岩手は昔から馬と切っても切れない縁がある。歴史的、文化的、競馬などの各方面から岩手と馬のかかわりを三部にわたって探る。

歴史研究家・金野静一氏

「中央にとっても馬は最高の贈り物だった」と語る金野氏。馬は古くから軍事的、政治的、経済的に重要視されてきた
「中央にとっても馬は最高の贈り物だった」と語る金野氏。馬は古くから軍事的、政治的、経済的に重要視されてきた
 岩手と馬の縁は古代にさかのぼる。当時、北東北の馬は日本の在来種よりも体高が高い大型馬だったといわれ、中国大陸と直接交易による輸入説も。大型で馬力があり従順な馬は、中央の侵略に対する有力な軍事的対抗手段でもあった。

 歴史研究家で、盛岡大短期大学部幼児教育科長の金野静一氏(83)は、「中央にとっても馬は最高の贈り物だった。清衡も関白に馬二頭を献上し、荘園を任されたのがきっかけで藤原氏の地位を築いた」と語るように、政治的にも重要視されていた。

 源頼朝は平泉討伐後、甲斐武田氏の一門で朝廷に献上する馬の飼育訓練を担当していた勅旨牧・三郎光行を陸奥国糠部五郡(岩手県北、青森県東南部)に配置。光行は南部氏の祖となり馬事産業の礎を築いた。

 金野氏は「頼朝は厨川(盛岡)以北は寒冷で耕作は不向きと見ていた。広大な草原も多く牧場経営に適していると考え、しっかりした牧場経営経験者を置いたのでは」と推察する。

 その後、盛岡藩はたびたび冷害飢饉(ききん)に見舞われたが、牧場経営や品種改良のノウハウは脈々と引き継がれ、良馬を生産・飼育し他国に売り安定収入を確保。日本有数の馬産地としての地位を確立した。江戸幕府で土佐の大名となる山内一豊が大金をはたいて南部馬を買い名声を高めた逸話もあり、当時一大ブランドとして全国に知れ渡っていた。

 馬籍簿、いわゆる血統書で南部馬の血統を保持。さらに各馬をランク付けし優秀な馬を売るよう徹底していたとされる。岩手競馬を扱うメールマガジン・テシオ編集長の松尾康司氏(49)は、馬籍簿完成を一六四〇年前後と推定し「イギリスより先ではないか。システム化された馬産育成は当時、世界最先端を進んでいたのでは」と語る。

 軍事目的で大型馬中心の戦国時代から、江戸時代中期には小型化が要求され農耕、移動や物資運搬手段として幅広く活躍。時代のニーズに合わせて改良された。明治政府では西欧型の騎兵戦力に対抗するため、国策として大型の外国種との雑種交配を推進。結果、純粋な南部馬は絶滅した。

 一方で依然馬産地として栄え、ノウハウは継承された。優秀な馬を証明するくらべ馬(競馬)へは自然の流れだった。