
馬種改良に尽力した先人たち

馬産地岩手では藩政時代、あるいはそれ以前から盛岡八幡宮をはじめ各地の神社境内で、奉納競馬が行われていたとされている。明治四年には現盛岡市菜園に一周千メートルの馬場が新設され、横浜、東京に次ぐ日本三番目の近代競馬場となった。
岩手の「近代競馬の父」とされたのは県議会議長七期、衆院議員を務めた上田農夫(一八四八-九五年)。洋種馬を導入し馬種改良、獣医学舎設立などに尽力。明治十六年には岩手調馬会社を設立し、翌年菜園で秋季競馬会を催した。岩手の近代競馬としてスタートし、関東とは違う生産地競馬の象徴となった。
明治三十六年には盛岡市上田に競馬場が新設された。明治天皇が明治初期、東北巡幸の際にご膳(ぜん)水として使ったとされる、わき水・黄金清水が近くにあることから、来場した皇族の親王が「黄金競馬場」と命名。現盛岡競馬場もラテン語の「ORO(黄金)パーク」として、黄金の名が受け継がれている。
もう一人、「南部馬改良の父」と言われるのが一條牧夫(一八五八-一九三八年)。明治時代に欧州から優秀馬を輸入し、当時小型化していた南部馬と交配させ馬匹改良に乗り出した。富国強兵の国策にも乗り、優秀馬を数多く輩出。競馬有識者も「馬匹改良の先駆者」と功績をたたえる。
ただ、当時は外国馬導入に反発もあったよう。牧夫の孫・八平太さん(75)=盛岡市高松=は「ヨーロッパの馬の血を入れた結果、大型化したものの、力がないと反感を買ったと聞く。それで職をなげうち、自ら生産した馬を引き、馬力を見せ付けたようだ」と祖父の苦労を語る。
牧夫は精力的に欧米を視察。力強さと同時に、スピードのある馬の導入の必要性も痛感し、長男で八平太さんの父・友吉(一八八四-一九四九年)を米国に派遣。当時友吉は十九歳で、本場の牧場で修業を積み、英国にも渡った。
米国で友吉は厩務(きゅうむ)員として名馬も扱い、名をはせた。現地では自動車が出始め、移動手段としての馬の存在が薄くなる一方で「競馬が盛んになってくるのを目の当たりにしたのでは」と八平太さんは代弁する。サラブレッド導入へ、牧夫の夢は息子へと受け継がれた。

外国で馬上にまたがる若き日の一條友吉(右上)。父のサラブレッドへの思いを受け継いだ=一條八平太さん提供
岩手の「近代競馬の父」とされたのは県議会議長七期、衆院議員を務めた上田農夫(一八四八-九五年)。洋種馬を導入し馬種改良、獣医学舎設立などに尽力。明治十六年には岩手調馬会社を設立し、翌年菜園で秋季競馬会を催した。岩手の近代競馬としてスタートし、関東とは違う生産地競馬の象徴となった。
明治三十六年には盛岡市上田に競馬場が新設された。明治天皇が明治初期、東北巡幸の際にご膳(ぜん)水として使ったとされる、わき水・黄金清水が近くにあることから、来場した皇族の親王が「黄金競馬場」と命名。現盛岡競馬場もラテン語の「ORO(黄金)パーク」として、黄金の名が受け継がれている。
もう一人、「南部馬改良の父」と言われるのが一條牧夫(一八五八-一九三八年)。明治時代に欧州から優秀馬を輸入し、当時小型化していた南部馬と交配させ馬匹改良に乗り出した。富国強兵の国策にも乗り、優秀馬を数多く輩出。競馬有識者も「馬匹改良の先駆者」と功績をたたえる。
ただ、当時は外国馬導入に反発もあったよう。牧夫の孫・八平太さん(75)=盛岡市高松=は「ヨーロッパの馬の血を入れた結果、大型化したものの、力がないと反感を買ったと聞く。それで職をなげうち、自ら生産した馬を引き、馬力を見せ付けたようだ」と祖父の苦労を語る。
牧夫は精力的に欧米を視察。力強さと同時に、スピードのある馬の導入の必要性も痛感し、長男で八平太さんの父・友吉(一八八四-一九四九年)を米国に派遣。当時友吉は十九歳で、本場の牧場で修業を積み、英国にも渡った。
米国で友吉は厩務(きゅうむ)員として名馬も扱い、名をはせた。現地では自動車が出始め、移動手段としての馬の存在が薄くなる一方で「競馬が盛んになってくるのを目の当たりにしたのでは」と八平太さんは代弁する。サラブレッド導入へ、牧夫の夢は息子へと受け継がれた。