戦後、競馬復興に動いた一條友吉

父友吉の資料や写真を手に、当時の思い出を振り返る一條八平太さん。友吉らの労苦で戦後競馬が復興した
父友吉の資料や写真を手に、当時の思い出を振り返る一條八平太さん。友吉らの労苦で戦後競馬が復興した
 欧米でサラブレッド導入の必要性を痛感しノウハウを学んだ一條友吉は帰国後、盛岡市に日本サラブレッド協会設立を提唱。全国に先駆け軽種馬の血統登録の規定を設け、後にサラブレッド輸入組合を創設した。

 メールマガジン・テシオの松尾康司編集長は、「血統概念を日本に導入した先駆者が友吉さん。将来、岩手がサラブレッド繁殖の代表地になると読み動いていたのでは」と、競馬界に与えた友吉の功績の大きさを語る。そんな友吉らの苦労をよそに、戦時下で競馬も中止された。

 戦後、競馬復興に動いたのも友吉だった。進駐軍の通訳をしていた友吉は、盛岡で「進駐軍慰安競馬」として民営競馬を企画、運営。八男・八平太さん(75)=盛岡市高松=は「兄はそろばんを使い配当を計算し、姉は場内放送など家族総出で駆り出された。その日レースが終わると、すぐに番組編成し即印刷。米も食う物もない時代に、よくやっていた」と振り返る。昭和二十一年十月五日には競馬が再開。「国内でもかなり早い時期に復活した競馬では」と松尾編集長は語る。

 「金もなかったが、他に娯楽のない時代。競馬場には遠足の小学生や、その辺で取れたトマトやジャガイモなどを売る人もいた」と八平太さんは懐かしそうに語る。戦後間もない時期だが競馬場は活気にあふれていたようだ。

 友吉ら一條家、関係者の苦労のかいがあり、翌二十二年には水沢、盛岡両競馬場で県馬匹組合連合会主催で競馬が正式に開催。二十三年には両場で自治体主催による競馬が始まった。競馬は戦災復興の一環で自治体に限り認められ昭和二十年代後半、国営、地方ともに民営化の方針だったが、都道府県の強い反対で国営だけが民営化され、日本中央競馬会(JRA)へ移行。自治体にとって当時「金の成る木」だった競馬運営を手放すわけはなかった。

 売り上げの一〇%を国庫に納付しつつ、企業論理を働かせ内部留保、拡大再投資も可能になり売り上げを伸ばしたJRA。一方で、地方競馬は官庁会計で単年度決算。財政に寄与する「財政競馬」が事実上始まった。そして県競馬組合が昭和三十九年に発足し、現体制が出来上がった。