
水沢競馬場誕生の背景-その1

岩手を代表する多くの優駿を生んだ奥州市水沢区。この地が盛岡と並んで岩手競馬の拠点となった要素は二つある。一つは藩政時代から人と馬が集まった地理的・歴史的な背景。もう一つが駒形信仰に代表される人々と馬との精神的なつながりの深さだ。
江戸時代は、盛岡、仙台両藩とも馬産地として名をはせ、馬は主力産物の一つだった。伊達政宗は領内で生産される馬の流通を管理するため、二歳駒奉行や馬買奉行を設けた史実もある。
やがて泰平の世が続くと馬は、軍事的な需要から農耕や運搬向けへと比重を変えていく。特にも仙台藩は、米の生産性を上げるため農耕馬の飼育を奨励。各地で馬市が開かれるようになった。
中でも馬市で活気を呈したのが仙台領内の東北端に位置した江刺(現奥州市江刺区)だ。安永二年(一七七三年)に記された現末奥片岡風土記には、「奥仙の岩谷堂には日本一の馬市が立ち、諸方の商い馬が、ここから諸国に分かれて出て行く門にあたる」とある。
旧江刺市史第二巻によると、江刺一帯には、刈り尽くせぬほど豊富な飼い草があるなど、馬の飼育条件が整っていた。また、盛岡藩境に近かったことで仙台領はもとより、盛岡や松前など他領からも売買用の馬が集まるなど、いわば“地の利”が、二つとない馬市の里になったとされる。
一方、岩谷堂に近い水沢は、このころ馬市に向かう人と馬の中継地点として次第に重きを成していく。中でも南部の馬商たちは、まず水沢へと入り、ここから岩谷堂や仙台の馬市へと向かった。旧水沢市史では、馬も人も水沢で旅の疲れを取ると同時に、市までの間、馬の調教を行った-とされ、これがその後の発展の礎となっていく。
時は移り、明治時代に入ると、馬をめぐる水沢と岩谷堂の活況の度合いが逆転する。転機は明治二十三年十一月に開通した東北本線だった。
交通の要衝となった水沢には、藩政時代にも増して人馬が集まり、岩谷堂で開かれた馬市も必然的に水沢へと移る。さらに、時を同じくして再び軍用馬の需要が増え始め、水沢は一大供給地としての地位を固め、こうした馬産業が水沢競馬の下地となったと言える。

昭和3年に記された水沢町の市街図。下に見える円形の走路が水沢公園にあった馬場。その左上が当時の水沢緯度観測所(現国立天文台水沢VERA観測所)=「水沢市史」掲載資料より
江戸時代は、盛岡、仙台両藩とも馬産地として名をはせ、馬は主力産物の一つだった。伊達政宗は領内で生産される馬の流通を管理するため、二歳駒奉行や馬買奉行を設けた史実もある。
やがて泰平の世が続くと馬は、軍事的な需要から農耕や運搬向けへと比重を変えていく。特にも仙台藩は、米の生産性を上げるため農耕馬の飼育を奨励。各地で馬市が開かれるようになった。
中でも馬市で活気を呈したのが仙台領内の東北端に位置した江刺(現奥州市江刺区)だ。安永二年(一七七三年)に記された現末奥片岡風土記には、「奥仙の岩谷堂には日本一の馬市が立ち、諸方の商い馬が、ここから諸国に分かれて出て行く門にあたる」とある。
旧江刺市史第二巻によると、江刺一帯には、刈り尽くせぬほど豊富な飼い草があるなど、馬の飼育条件が整っていた。また、盛岡藩境に近かったことで仙台領はもとより、盛岡や松前など他領からも売買用の馬が集まるなど、いわば“地の利”が、二つとない馬市の里になったとされる。
一方、岩谷堂に近い水沢は、このころ馬市に向かう人と馬の中継地点として次第に重きを成していく。中でも南部の馬商たちは、まず水沢へと入り、ここから岩谷堂や仙台の馬市へと向かった。旧水沢市史では、馬も人も水沢で旅の疲れを取ると同時に、市までの間、馬の調教を行った-とされ、これがその後の発展の礎となっていく。
時は移り、明治時代に入ると、馬をめぐる水沢と岩谷堂の活況の度合いが逆転する。転機は明治二十三年十一月に開通した東北本線だった。
交通の要衝となった水沢には、藩政時代にも増して人馬が集まり、岩谷堂で開かれた馬市も必然的に水沢へと移る。さらに、時を同じくして再び軍用馬の需要が増え始め、水沢は一大供給地としての地位を固め、こうした馬産業が水沢競馬の下地となったと言える。