
水沢競馬場誕生の背景-その2

数多くの良馬を生産した東北地方の各地では、古くから草競馬や祭典競馬も盛んだった。水沢競馬の歴史も同様で、その起源は奉納競馬だったとされる。
旧水沢市史によると、水沢競馬の始まりは文治六年(一一九〇年)にまでさかのぼる。このころ奥州留守職を務めた伊沢四郎左近将監(留守氏初代家景)が、水沢の地に建立した塩釜神社の例祭として、流鏑馬(やぶさめ)や馬術競技を行ったのが最初とされる。
また、古くから馬や農耕を守護する神としてあつく信仰を集める駒形神社が、明治四年に国幣小社となり、里宮があった金ケ崎町内から、塩釜神社がある奥州市水沢区中上野の現在地に遷宮されてからは、同神社の祭典に合わせ「奉納競馬」として毎年、春と秋に開催された。
しかし、当時は、神社の南側にあった一本馬場(直線約百八十二メートル)を使った“くらべ馬”のようなスタイルだった。
水沢競馬の洋式化が大きく進んだのは三十四年。この年に競馬法が改正され、水沢公園の南側に一周約五百メートルの円形馬場が誕生した。また、四十二年には東宮(後の大正天皇)の水沢来訪を記念し、走路を八百メートルに拡張。皇太子にあやかり新施設は「東(あずま)競馬場」と命名された。
その後、大正九年には勝馬投票の執行許可を当局に申請したが、これが不許可となり、地元関係者に波紋を呼ぶ。当時、地方競馬で勝馬投票を行うには、一哩(マイル)馬場(約一・六キロ)が必要条件だった。しかし、水沢の施設は「半哩馬場(八百メートル)」。このため、関係者は観覧席料を徴収する際に投票券を添付し、的中者には物品引換券を贈るなどしてファンを維持したが、「一哩馬場」の整備は大きな課題となる。
関係者の悲願がかなったのは十三年のことだった。水沢町を挙げての取り組みにより、走路千六百メートルの新競馬場が完成。これを機に馬政局指定競馬場となり、待望久しかった勝馬投票券の発売が可能となる。
さらに、昭和三十九年三月には北上川に程近い水沢区姉体町阿久戸の現在地に移転。その後はスタンドの増築などが行われ、今日に至っている。

昭和初期に撮影された水沢競馬場。競走馬が写った馬場は現在の水沢公園内にあった=「水沢市史」掲載資料より
旧水沢市史によると、水沢競馬の始まりは文治六年(一一九〇年)にまでさかのぼる。このころ奥州留守職を務めた伊沢四郎左近将監(留守氏初代家景)が、水沢の地に建立した塩釜神社の例祭として、流鏑馬(やぶさめ)や馬術競技を行ったのが最初とされる。
また、古くから馬や農耕を守護する神としてあつく信仰を集める駒形神社が、明治四年に国幣小社となり、里宮があった金ケ崎町内から、塩釜神社がある奥州市水沢区中上野の現在地に遷宮されてからは、同神社の祭典に合わせ「奉納競馬」として毎年、春と秋に開催された。
しかし、当時は、神社の南側にあった一本馬場(直線約百八十二メートル)を使った“くらべ馬”のようなスタイルだった。
水沢競馬の洋式化が大きく進んだのは三十四年。この年に競馬法が改正され、水沢公園の南側に一周約五百メートルの円形馬場が誕生した。また、四十二年には東宮(後の大正天皇)の水沢来訪を記念し、走路を八百メートルに拡張。皇太子にあやかり新施設は「東(あずま)競馬場」と命名された。
その後、大正九年には勝馬投票の執行許可を当局に申請したが、これが不許可となり、地元関係者に波紋を呼ぶ。当時、地方競馬で勝馬投票を行うには、一哩(マイル)馬場(約一・六キロ)が必要条件だった。しかし、水沢の施設は「半哩馬場(八百メートル)」。このため、関係者は観覧席料を徴収する際に投票券を添付し、的中者には物品引換券を贈るなどしてファンを維持したが、「一哩馬場」の整備は大きな課題となる。
関係者の悲願がかなったのは十三年のことだった。水沢町を挙げての取り組みにより、走路千六百メートルの新競馬場が完成。これを機に馬政局指定競馬場となり、待望久しかった勝馬投票券の発売が可能となる。
さらに、昭和三十九年三月には北上川に程近い水沢区姉体町阿久戸の現在地に移転。その後はスタンドの増築などが行われ、今日に至っている。