
仙北街道と「浅野の石馬っ子」(奥州・胆沢)

奥州市水沢区から西に延びる仙北街道は、古代から近世にかけ、岩手と秋田を結ぶ重要な道だった。その街道筋に位置する胆沢区南都田地内に、一頭の馬の姿を彫った石像が奉納されている。
地元の人たちが親しみを込め、「浅野の石馬っ子」と呼ぶ像は、県内各地にある駒形神や蒼前神、馬頭観音など、農耕や物資の運搬に重要な役割を果たした馬の息災や供養の意味を込めた信仰の一つだ。
高さ一・三メートルの馬像は、明治四十一年に建立された。寄進者は当時、馬商として財を成した南都田字濁川の佐々木兵五郎氏。自分が売買した農耕馬や運搬馬のほか、近世までの間、この仙北街道を往来した多くの馬を供養したもので、一関市山目にいた石工の作と伝えられる。
また、奉納に当たって佐々木氏は、石とはいえど馬を雨露に当てるのは忍びないと、馬小屋に見立てた上屋を設けた-といわれ、以後、この馬像は佐々木家の当主が代々管理するなど、今もなお厚く供養されている。
旧胆沢町史によると、奥羽山脈を越えて秋田へと通じる街道は、「せんぼくみち」(岩手側)、「せんだいみち」(秋田側)とも称された。その歴史は、胆沢城の造営に伴う出羽との直路の開削に始まる。
街道を往来する数多くの物資のうち、水沢区から胆沢区若柳の市野々地域までの間は、馬たちが運搬役として使われた。そこから西は急峻(きゅうしゅん)な山道が幾重にも続くため、「背負子」と呼ばれる男たちが担った。その昔、馬が通行できなかったと伝えられる現在の胆沢ダム工事現場付近は、「馬留」の地名が残る。
この古道は、明治十五年、北上市と秋田県を結ぶ「平和街道」の開通によって役目を終えたが、街道筋に残されている馬神像や多くの馬頭観音像などは、かつて、この地域の人たちが、馬と共に暮らし、栄えた歴史を今に伝えている。
「浅野の石馬っ子」を管理する佐々木博さん(69) わが家は、馬商をした曽祖父に始まり、祖父と父が馬車の運搬業務に携わるなど馬とは代々深くかかわってきた。「石馬っ子」は、偉大だった祖先を感じる遺産の一つ。昔は9月17日の例祭に草相撲を奉納したり、村芝居を上演したりするなどしたものだった。これからも地域の人たちの協力を得ながら、馬と地域の歴史を伝える神様として大事にしていきたい。

仙北街道を往来した馬を供養するため建立され、今も大事に管理される「浅野の石馬っ子」
地元の人たちが親しみを込め、「浅野の石馬っ子」と呼ぶ像は、県内各地にある駒形神や蒼前神、馬頭観音など、農耕や物資の運搬に重要な役割を果たした馬の息災や供養の意味を込めた信仰の一つだ。
高さ一・三メートルの馬像は、明治四十一年に建立された。寄進者は当時、馬商として財を成した南都田字濁川の佐々木兵五郎氏。自分が売買した農耕馬や運搬馬のほか、近世までの間、この仙北街道を往来した多くの馬を供養したもので、一関市山目にいた石工の作と伝えられる。
また、奉納に当たって佐々木氏は、石とはいえど馬を雨露に当てるのは忍びないと、馬小屋に見立てた上屋を設けた-といわれ、以後、この馬像は佐々木家の当主が代々管理するなど、今もなお厚く供養されている。
旧胆沢町史によると、奥羽山脈を越えて秋田へと通じる街道は、「せんぼくみち」(岩手側)、「せんだいみち」(秋田側)とも称された。その歴史は、胆沢城の造営に伴う出羽との直路の開削に始まる。
街道を往来する数多くの物資のうち、水沢区から胆沢区若柳の市野々地域までの間は、馬たちが運搬役として使われた。そこから西は急峻(きゅうしゅん)な山道が幾重にも続くため、「背負子」と呼ばれる男たちが担った。その昔、馬が通行できなかったと伝えられる現在の胆沢ダム工事現場付近は、「馬留」の地名が残る。
この古道は、明治十五年、北上市と秋田県を結ぶ「平和街道」の開通によって役目を終えたが、街道筋に残されている馬神像や多くの馬頭観音像などは、かつて、この地域の人たちが、馬と共に暮らし、栄えた歴史を今に伝えている。
「浅野の石馬っ子」を管理する佐々木博さん(69) わが家は、馬商をした曽祖父に始まり、祖父と父が馬車の運搬業務に携わるなど馬とは代々深くかかわってきた。「石馬っ子」は、偉大だった祖先を感じる遺産の一つ。昔は9月17日の例祭に草相撲を奉納したり、村芝居を上演したりするなどしたものだった。これからも地域の人たちの協力を得ながら、馬と地域の歴史を伝える神様として大事にしていきたい。