「岩手と馬の物語」第二部では、「みちのく」の野を駆け抜け、その名を歴史に残した駿馬たちを紹介する。

源義経の愛馬「太夫黒」

一関市千厩町内に建立されている「太夫黒」の顕彰碑と解説板
一関市千厩町内に建立されている「太夫黒」の顕彰碑と解説板
 天下の名馬、みちのく産に過ぎるものはなし。みちのくの中の良馬、この馬に及ぶものはなし…

 一関市千厩町千厩地内に一頭の馬の名を刻んだ顕彰碑がある。碑文は水戸藩主徳川光圀の嫡子で高松藩の二代藩主となった松平頼常が、儒臣(じゅしん)十河保定に選文を命じたもので、名馬をたたえる格調高い文が続く。

 太夫黒(たゆうぐろ)。源義経と共に「一の谷の戦い」で活躍するなど、日本史の中で最も有名な駿馬は千厩産だったといわれる。

 千厩の地名は、前九年の役の際、源頼義・義家親子が陣を敷く一方、雨露をしのぐため岩穴に千頭の軍馬をつなぎ、厩(うまや)としたことに由来する。その後、奥州藤原氏の時代には私牧が設けられた。

 治承四年(一一八〇年)、平氏追討を目指した兄・頼朝の挙兵を知った義経は、平泉から鎌倉へと出発する。この際、藤原秀衡が、はなむけとして贈った自身秘蔵の愛馬が太夫黒で、初めは「淡墨(うすずみ)」という名だった。

 この馬が歴史に残る働きを見せたのが「一の谷の戦い」。世にいう鵯(ひよどり)越えの逆落としの場面である。人馬一体となった奇襲戦術で名をはせた義経は、その後、検非違使(けびいし)少尉(判官(ほうがん))に任官。同時に従五位下に叙せられ、黒毛の愛馬も位階の別称(太夫)から太夫黒と呼ばれた。

 また、太夫黒は、恩愛の情を知る馬-ともいわれた。

 「屋島の戦い」で義経四天王の一人・佐藤継信が、主君の身代わりとなって討ち死にする。平泉から付き従った忠臣の死を悲しんだ義経は、その菩提(ぼだい)を弔った際の礼として愛馬を寺に寄進した。

 月日が流れたある日、太夫黒の姿が馬屋から消え、継信の墓前で息絶えていた。この名馬の心根を哀れんだ里の人々は、継信の墓近くに太夫黒を葬ったとされる。

 この墓は現在も高松市牟礼町にあり、昭和六十三年に千厩町参拝団の手で太夫黒の供養碑が建立されている。

 【メモ】馬は支配階級の権威の印。また、武士が台頭した平安以降は、武門の象徴ともなった。国産馬の中でも奥州の馬は大きく、古くから貢馬(くめ)として都に贈られるなど最高級品だった。各種の資料によると、「太夫黒」の体高は約139センチ。奥州一の名馬と称された藤原国衛の愛馬「高楯黒(たかだちぐろ)」は148センチと伝えられる。