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早いもので東京に来た春っ平は2年生でした。いまだに戦争の焼け跡がそちこちに残る痛々しい光景でした。だが、新宿や渋谷の映画館は活気づき、田舎では見られなかったアメリカの西部劇やフランス映画を、手当たり次第に見て歩きました。絵も好きで、上野の美術館に通い続けたり、自分の好きな画家の個展があれば、銀座のギャラリーなどにも足を運びました。
このころから、絵の鑑賞だけでなく、自分で描くことに興味を持ったのでした。考えてみたら、油絵の具などを買う金などなかったので、おやじに話したら、「そう簡単に画家になれるはずがない。自分の仕事の勉強をしっかりやる事が大事」と注意されたのでした。
「おれは、絵かきの先生になるつもりはないのになあ」と春っ平が考えているうちに、そうだこれだとあることを思い付いたのでした。テニス部やバスケット部が、懸命に1年生の入部を勧誘しているのを見て、「おれもやってみよう」と考えたのでした。
春っ平は友だち4〜5人の助けを借り、学友会の中に美術研究部を設立する事に決め、新入生を誘ったら絵の好きな6人が入部したのでした。春っ平の友だちもメンバーに加わり、美術研究部が成立する事になったのでした。油絵の画材や道具を全部そろえ、教室は階段教室を借り「美術研究部」と名乗りを上げたのでした。
当時の美術界は戦後の過渡期にあり、従来の写実をぶち壊して自由奔放な絵を描く風潮があり、アバンギャルドの絵が流行(はや)りだした時でした。「おれたちもあんな絵なら描けるんだな」と勝手放逸な絵を描いて楽しんでいたのでした。
だが今後の美術研究部の運営はいかに−となって、春っ平が中心となって考え、実技のイロハからやろうと石こうデッサンから始めました。次は人体クロッキーへと計画をして、みんなの絵がうまくなった秋には展示会をやる計画を決めたのでした。
今日も授業の後、美術の部屋に来て、楽しく絵の勉強。石こうデッサンは何度かやり、みんなが「今度は人体クロッキーですよ」と言いだしたのでした。春っ平は何度か経験があったが、肝心の女性モデルがどこにいるのか分からず、画材屋さんのモデル市があると聞き、会長の春っ平が興味津々で行ってみたのでした。
「この2階にモデルさんが居るから、見て来なさい」と教えられ、2階に上がって行ったら、モデルの女性が大勢。びっくりしてしまったのでした。たばこを吸ったり、足を投げ出したり、まるで夜の銀座に紛れ込んだのでは、と一瞬頭がクラクラッとした。スタイルのいいモデルを選ぶ余裕もなく、目の前のモデルさんが「お願いします」と言うので契約をして帰って来た。美術部のみんなに「美人さんを頼んで来たからな」と言うと大喜び、準備に張り切ったのでした。
土曜の午後、ポスターを学内に掲示すると同時に、もう一度、美術部員募集案内を張り出したのでした。いよいよ授業が終わった校庭には、テニスやバスケット部の連中が運動をしていてたが、運動部でない連中が用紙や鉛筆を持って校庭で十人以上もいるので聞いたら、美人女性スケッチに参加したいと待っていたのでした。
午後1時半、クロッキーの勉強が始まるので、美術研究部の連中が画台などを並べ、モデルさんが裸で出て来るのを待っていた。ところが階段教室の外で「おれたちも絵をかきたいから入れて下さい」と鉛筆と紙を持って怒鳴っているのでした。
春っ平が「ここはストリップ劇場と違うぞ」と、彼らを追い返すのが大変でした。春っ平もモデルさんを描き始めたが、1年生の連中は裸のモデルさんを初めて描くので、じっと見詰めるまなざしと真剣に描いている姿は、印象的でした。秋には好きな絵を展示して、みんなに見ていただいたのでした。
(筆者は一関市中里出身、多摩市在住。挿絵も)
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