震災10年 ともに 「あの日への思い 未来への思い」
東日本大震災から10年。盛岡市に本社、支社、支局を置く新聞・通信・放送の報道機関14社は、被災者の思いに耳を傾け、教訓をこれからも伝承し続けていこうと「岩手メディア共同キャンペーン」を展開し、メッセージを募りました。県内をはじめ、全国から寄せられた決意や願い、励ましの言葉の一部を紹介します。
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小林秀人さん(26)
2021年3月11日で震災から10年になります。震災のとき私は高校生で何もすることができませんでした。今、思うと何かできることがもっとあったのではないのかと思います。
だからといって、過去に戻ることはできません。今、やれることを頑張ろうと考えています。
仕事は地元で家族と漁業の仕事をしています。まだまだ始めたばかりで、覚えることがたくさんありますが、頑張ることで地元のためになれば嬉しいです。将来的には、山田のために、家族のために働けるような人間に成長できればと思っています。ですが、なかなか自信が持てないところが現状です。
震災で悲しく、辛い思いをした多くの人たちが笑顔で暮らせる街になり、自分自身も笑顔で暮らせたらと願っています。
松本勝徳さん(59)
平成23年3月11日から10年が経過します。あの時の、その前の街並みはもうありません。東日本大震災で多くのものを、かけがえのないものを失い、不自由な生活も経験しました。東日本大震災のことを決して忘れてはなりませんし、そのことを後世に伝えなければなりません。私は毎月11日に、生活や人生を振り返ることにしています。
過去は変えることはできませんが、未来は変えることができます。その教訓を生かして、あの時に支援をしてくれた皆さんに感謝しながら、一日一日を大切にして、自分らしい、生きがいのある人生を送りたいものです。
鈴鹿典子さん
私も車いすユーザーで患者生活を送る身ですが、闘病する友人たちが、東日本大震災で被災しました。患者は特に逃げることが困難ですし、避難所生活を選択しづらいことも多々あります。本当に心配でしたし、心から無事を願いました。その後、私は別の地域で、大きな災害を2度経験しました。これまでの国内の災害で、逃げられない患者や高齢の方のそばから離れられず、もろとも命を落としてしまった医療者の方や介護者の方々がいた、という話を聞きました。以降、患者同士で「生きられる命は生きてほしい。逃げられる命は、どうか大切な人や未来のために逃げてほしい。そしてもし、身体の弱い者のもとを去って逃げたことに罪悪感をもって苦しくなったら、その時は、あたたかく、時に専門性の高い心のケアを受けてほしい」と話しています。それが、患者としての私の思いであり、災害時の最大の願いです。
ぶーふさん(49)
2011・3・11 人生で初めての大手術からの職場復帰の日。仕事で外回りに出掛けて間もなく襲った大地震。そこからしばらく仕事に必要な荷物が届かず、ガソリンも調達がままならない日々が続く中、色んな事を乗り越えてきたこの10年。続けられる仕事がある事に感謝した日々を忘れてしまいそうな時もあるけど、折に触れコロナ禍という再び襲った困難な状況に心折れそうになりそうになりながらも一緒に頑張ってくれる仲間たちと、奮闘していきたいと思います。
佐藤ゆき子さん(79)
私は仙台の学生寮で学生時代を送りました。そして大震災では沿岸部に住む二人の寮友が被害を被りました。石巻の友は自宅を流され数年後持病が心労により悪化、亡くなりました。南相馬の友も原発の風評のため暫(しばら)く東京の娘宅に避難し、現在も医療難民状態を嘆きつつ闘病中です。支援をしていくつもりです。
てんぷらひこさん(20)
今でもあの日のつらかったことは忘れられないけれど、支援をきっかけに出会った方々や与えられたたくさんのものを忘れず、大学を卒業したら地元の復興や災害時の被災地支援を真っ先にしたいと思っている。
むすび丸さん(28)
大学の合格発表の翌日。
揺れ、押し寄せ、崩れ、流された思い出の地。
夢いっぱいだったはずの旅立ちは、18年間生まれ育ってきた岩手を置き去りにするという後ろめたさに変わった。
何の恩返しもできないまま、あれからもう10年が経つ。
何もなかったように東京で働きながら、それでも決して忘れることはない。
田舎から早く抜け出したいと思っていたはずなのに、震災の日からずっと、私の時は止まっていて、私の心は岩手にある。
ことあるごとに、故郷の澄んだ空気、爽やかな風、はるかな岩手山を思い出し、同時に、恐ろしい地響きと灰色の空、たくさんの涙が蘇る。
きっとずっと消えることはないのだろう。
この痛みは、私が故郷を愛しく思っている証だから。
あの日の心の震えを胸に抱いて、これからも生きていく。
阿部武さん(83)
震災が発生してから沿岸被災地へ出向く気になれずにいましたが、昨年、地域の組織団体で陸前高田市へ行き、地元の方々にいろいろな話を聞いてきました。その限りでは元に戻るまでにはまだまだ時間を要するのではないかと感じました。あの大惨事を風化させないようにし、一日も早く被災地の方々が完全復帰されることを祈っています。
チョロ助さん(62)
私の実家の近くまで津波が来たことを、1週間後に知りました。幸い実家の母は逃げて無事でした。たまたま実家に来ていた姉も無事でした。3カ月避難所で暮らしていました。
母や姉は無事でしたが、同級生や知人が津波の犠牲になりました。
おととし、中学の同級会がありましたが、皆で犠牲になった同級生を偲んで校歌を泣きながら歌いました。亡くなった同級生も天国から校歌を歌っていたと思います。
青春時代を一緒に送ってくれて有難う。
山崎正之さん(58)
避難所に居た時に、その人が来ました。
規模の小さい避難所を探して来ました…と。もし良かったら、私(男性)の打った蕎麦を食べませんか?…と。もちろん断る理由もありません。岡山から1人で来てくれました。あの時の「蕎麦」が美味しくて美味しくて…ボランティアさんの気持ちに感謝。出会いに感謝。そしてありがとうを言いたいです。私は感銘を受け、蕎麦打ちを始めました。仮設住宅で始めた蕎麦打ち…今も継続してます。もうすぐ10年経ちますが…あの時の蕎麦の味が忘れられません。その気持ちを忘れずに、これからも蕎麦打ちを続けて生きたいと思います。
千葉裕樹さん(19)
10年前の3月10日の自分へ
何気ない毎日だったと思う日も、その翌日には全て壊れるということを知って欲しい。必ず恐怖で泣いてしまい、数ヶ月いや、数年経てば自分は被災地を訪れて自分の無力さを知ることだろう。
だから『今を必死に生きて欲しい、そして誰かを助けるヒーローになってくれ』
10年後の自分は二十歳の成人目前だけど、今でもあの時の無力さを忘れてはいない。でも誰かの生活を支える仕事をしているから。10年前の君もヒーローになってくれ。
志田成美さん(26)
東日本大震災で私は祖母を亡くしました。いつもと変わらない朝、高校に行く直前に祖母と大喧嘩をして「いってきます」の一言も言わず家を出ました。なんであの日、あんなことで喧嘩をしたのか、どうして「ごめん」の一言が言えなかったのか10年経った今でも後悔が残っています。震災で私が学んだのは、周りに感謝を伝えることです。
世界中の人たちに、数え切れないほどの支援と勇気をいただきました。次はこの感謝の気持ちを私ができることからお返ししていきたいです。高校を卒業して進学、就職としばらく離れていた地元に去年帰ってきました。未来へ歩き出した地元の姿を見て、私自身も次の未来へ向かって一歩ずつ進んでいこうと思っています。目の前にある小さいことにも感謝の気持ちを忘れず、いつも応援してくれる家族に感謝の気持ちを忘れず地元と共に10年目の今年も私らしく未来へ向かって進んでいこうと思っています。
阿久津貴之さん(49)
大学で地学を学んだ私にとって、あの日は自身を振り返る大切な日でもある。私達の学びは、自然災害の多いこの列島の暮らしに活用されているだろうか。現地を知りたくて何度も足を運んだ。悩みの末に『いわて復興応援隊』に応募し、沿岸の暮らしも体験した。日々を重ねるほどに、豊かで美しい自然に囲まれた地域を強く感じる。ただ、あの一瞬の出来事が遺(のこ)した爪痕は、想像していたよりも大きかった。街は工事で変われども、そこに住む人の心は簡単に変わらない。応援隊は離任したが、今も現地の人に寄り添える支援は無いか模索している。