一関・平泉

岩手宝国2022【特集】栄耀の陰に鎮魂の歴史 平泉の文化遺産は平和の尊さを訴える

晩秋の夕、幻想的にライトアップされた中尊寺金色堂新覆堂。 中尊寺は戦乱で生き残った奥州藤原氏の初代・清衡が最初に造営した寺院。極楽浄土を表現した金色堂は恒久平和の理念を今に伝える。

 世界遺産に登録された平泉の文化遺産の神髄は、「仏国土(浄土)」という普遍的な価値にある。栄耀栄華(えいようえいが)に彩られた平泉の仏教文化は、一朝一夕(いっちょういっせき)につくられたものではない。その陰には、戦乱の世でこの世の地獄を見た奥州藤原氏初代藤原清衡(ふじわらのきよひら)の絶望から、仏教の浄土思想の教えによる魂の再生を経て、鎮魂と平和を希求する深い祈りがあった。清衡が謳(うた)った『供養願文(くようがんもん)』には、人間だけでなく生命あるすべてのものへの畏敬の念が込められている。奥州藤原氏が三代、100年にわたって築きあげた仏国土の精神は、今日の平泉にも受け継がれ、21世紀になっても争いの絶えない世界に向け、平和を願うメッセージを発信している。

【いわにちコレクションで紙面版「岩手宝国2022」全ページをご覧いただけます】


文 松田十刻(まつだ・じゅっこく)
昭和30年(1955)、岩手県盛岡市生まれ。本名は高橋文彦。立教大学文学部卒業後、新聞記者や団体職員、フリーランス(編集・ライター)などを経て、執筆活動に入る。第2回新潮ミステリー倶楽部賞(1997年)で「チャップリン謀殺指令」が最終候補に。ミステリーのほか戦記、時代小説、評伝など多彩なジャンルで作品を発表している。


 
 
浄土思想による平和希求の理念は時を超えて今も
▲朝焼けを映す衣川と、朝靄に浮かぶ束稲山。衣川は北上川の支流で、奥州藤原氏による都市平泉は衣川の南に築かれた。

 平成23年(2011)6月、平泉の文化遺産が、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産に登録された。くしくも東日本大震災(3月11日)から3カ月後の朗報となり、復興をめざす東北に光明(こうみょう)をもたらした。

 今年は、世界遺産登録から11年になる。

 5月には、新型コロナウイルス感染症のパンデミック(世界的流行)で縮小されていた春の藤原まつりが3年ぶりにほぼ通常規模で開催され、呼び物の源義経公東下(みなもとのよしつねこうあずまくだ)り行列は大勢の見物客でにぎわった。

 平泉の世界遺産の種類は、歴史的建造物や遺跡などの文化遺産(ほかに自然遺産、複合遺産)である。資産名称は、「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」。

 具体的には、中尊寺(ちゅうそんじ)、毛越寺(もうつうじ)、観自在王院跡(かんじざいおういんあと)、無量光院跡(むりょうこういんあと)、金鶏山(きんけいざん)の5資産を指す。

 ほかにも柳之御所(やなぎのごしょ)遺跡、達谷窟(たっこくのいわや)(平泉町)、骨寺村荘園(ほねでらむらしょうえん)遺跡(一関市)、白鳥舘(しろとりたて)遺跡、長者ヶ原廃寺(ちょうじゃがはらはいじ)跡(奥州市)を構成資産にあげていたが、これらは浄土思想との関連が薄いとして除外された。

 平泉の世界遺産登録は、平成20年(2008)の世界遺産委員会で延期され、構成資産の見直しを経て3年越しで悲願が達成された経緯がある。関係者は、除外された遺跡はいずれも「考古学的遺跡群」に値(あたい)するとして、追加登録へ向けた活動を続けている。

 平泉の文化遺産は、貴族社会から武家社会への転換期にあたる平安末期のおよそ100年にわたり、奥州藤原氏三代によって築かれた。

 初代藤原清衡は、前九年・後三年合戦(ぜんくねんごさんねんかっせん)で、2度も奇跡的に生き延びた。戦乱のない世を願った清衡は仏教に帰依(きえ)し、浄土思想に基づく仏都(仏国土)をつくりあげようとの信念から、平泉において中尊寺の建立(こんりゅう)に着手した。

 大治(だいじ)元年(1126)3月、清衡は中尊寺の落成を祝う盛大な法要を営んだ。

 中尊寺建立の趣旨を記した「(落慶)供養願文(くようがんもん)」には、平和を希求する高邁(こうまい)な理念が記されている。その理念は、「ユネスコ憲章」にも通じるものがある。

 二代基衡(もとひら)は、初代清衡の理念を受け継ぎ、浄土庭園に仏塔や堂宇を配した毛越寺の造営にとりくむなど、仏都づくりを推し進めた。基衡の妻は、観自在王院を建立した。

 三代秀衡(ひでひら)は、宇治平等院(うじびょうどういん)の鳳凰堂(ほうおうどう)に倣(なら)った無量光院を建立。仏教による平泉の黄金文化は、全盛期を迎えた――。

 これら平泉の仏都づくりの基準になったとされるのが、奥州藤原氏が信仰した金鶏山である。金鶏山が文化遺産の資産に含まれたのは、仏国土の表象(ひょうしょう)として認められたことによる。

 奥州藤原氏は金の採掘などで得た莫大な資金をもとに、世界でも類のない豪華絢爛(ごうかけんらん)な美術工芸を含む特異な仏都を創出した。根底にあるのは、万民の安寧(あんねい)を願った清衡の理念である。

 栄耀栄華を誇った平泉は志(こころざし)なかばで滅んだが、浄土思想に根差した平和思想は、時を超えて今日に訴えかけるものがある。

 

平泉の黎明
蝦夷の英雄アテルイ

北の大地で生きる蝦夷は、まつろわぬ民と呼ばれた。

まつろわぬ、とは、服従しないことを意味する。

アテルイが末裔に託したものとは――。

▲志波城古代公園(盛岡市)。志波城は、坂上田村麻呂が造営した古代陸奥最北・最大級の城柵で、アテルイを滅ぼした翌年の延暦22年(803)築造。現在は、歴史公園として外郭南門や築地塀などが復元整備されている。
 
黄金産出を機に始まった蝦夷と朝廷との戦い
▲悪路王首像。悪路王は蝦夷の首長アテルイともいわれ、征夷大将軍・坂上田村麻呂に征伐された。鹿島神宮(茨城県)に首像と首桶がまつられている

 古代東北に住む人々は、大和朝廷(ヤマト政権)以来、中央政権から蝦夷(えみし)という蔑称(べっしょう)で呼ばれた。

 飛鳥(あすか)時代後期から律令制が始まると、朝廷は古代東北の地を令制国(りょうせいこく)(地方行政区分)に基づき、陸奥国(むつのくに)と命名した。

 奈良時代の神亀(じんき)元年(724)、平城京の朝廷は、陸奥国を統治する拠点として、多賀城(宮城県多賀城市)を築いた。多賀城には、行政などを担う陸奥国府、朝廷軍を統括する鎮守府が置かれた。

 天平(てんぴょう)21年(749)、陸奥国を治める陸奥守(むつのかみ)の百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)(百済の帰化人)が、小田郡涌谷(わくや)(宮城県遠田郡涌谷)において黄金を発見し、900両を朝廷に貢進(こうしん)した。文献上、日本で金が産出されたことを示す最初の記録である。

 東大寺の大仏鋳造を進めていた聖武(しょうむ)天皇はこれを祝し、4月に天平感宝(かんぽう)と改元し、7月に娘に譲位。女帝の孝謙(こうけん)天皇が即位し、天平勝宝(しょうほう)と改元した。

 陸奥国にも律令制による租税が課せられていた。なかでも物品租税の調(ちょう)(貢ぎ物)、労役の代わりに産物を納入する庸(よう)は、地方の負担になっていた。

 天平勝宝4年(752)2月、朝廷は多賀郡に課していた調を麻布、庸を金とした。産金地には多くの役夫(えきふ)が投入され、産出した金は平城京へ運ばれた。

 4月9日には、奈良の東大寺で大仏開眼供養が盛大に執り行われた。

 陸奥国府は坂東の兵や朝廷に帰順した蝦夷(俘囚(ふしゅう)・夷俘(いふ))などを動員し、桃生(ものう)城(宮城県石巻市)など各地に城柵(じょうさく)を築き、諸国の浮浪人などを移住させた。

 朝廷に忠実な俘囚は良民(公民)として戸籍に登録され、口分田(くぶんでん)を班給(はんきゅう)(分与)され、税を納めた。

 だが、朝廷の名で貸与される耕地は、蝦夷の先祖伝来の土地である。

 もともと、朝廷の支配を望まない「まつろわぬ(服従しない)民」である蝦夷、さらには俘囚までが、朝廷の強引なやり方に憤慨(ふんがい)し、各地で蜂起(ほうき)した。

 宝亀(ほうき)11年(780)3月、俘囚の伊治呰麻呂(これはるのあざまろ)が反旗を翻し、陸奥守・鎮守府将軍兼任の紀広純(きのひろずみ)を殺し、多賀城を焼き払った。

 この宝亀の乱を皮切りに、陸奥国は戦乱の渦に飲みこまれてゆく。

 
壮絶な戦いの果てに
▲巣伏古戦場跡公園(奥州市) 北上川に架かる四丑橋の南にあり、この辺りが蝦夷軍と朝廷軍が激戦を繰り広げた巣伏の戦いの跡地だと考えられている。

 

▲アテルイ モレ慰霊碑(奥州市) アテルイらが延暦8年(789)に朝廷軍を撃破した「巣伏の戦い」で陣取った羽黒山頂上付近の出羽神社境内に建てられている。

 延暦(えんりゃく)3年(784)、桓武(かんむ)天皇は平城京から長岡京(ながおかきょう)(京都府)へ遷都(せんと)した。蝦夷討伐を国是(こくぜ)とする桓武天皇は、延暦8年(789)、征東大将軍・紀古佐美(きのこさみ)率いる約5万3千人の将兵を派遣した。

 このときの朝廷軍と蝦夷軍との戦いを記述した勅撰(ちょくせん)史書『続日本紀(しょくにほんぎ)』6月3日条に、「賊帥夷(ぞくすいえみし)阿弖流為(あてるい)」としてアテルイが初めて登場する。

 アテルイは知略を駆使し、北上川沿いの巣伏(すぶし)(奥州市)において、朝廷軍を挟み撃ちにした。朝廷軍の戦死者は25人(傷者245人)だったが、1036人もの将兵が川に逃げて溺死した。

 桓武天皇は、長岡京から平安京に遷都した延暦13年(794)、大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を初の征夷大将軍に就け、10万人もの軍勢を派遣した。さしもの蝦夷軍も多勢に無勢とあって苦杯を喫した。朝廷軍が討ちとった首級(しるし)は457を数えた。

▲坂上田村麻呂像(宮城県石巻市・零羊崎神社蔵)

 副将軍として指揮を執った坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は延暦15年(796)、陸奥守などを兼任し、翌年には征夷大将軍に任ぜられた。

 延暦20年(801)には、4万の将兵で「まつろわぬ」蝦夷を討伏し、京に凱旋。翌年1月、北進の拠点となる胆沢(いさわ)城(奥州市)に入った。

 4月15日、アテルイは盟友モレ(母礼)と共に500人の将兵を率いて胆沢城を訪れ、投降した(『日本紀略(きりゃく)』)。

 胆沢城より北には志波(しわ)城(盛岡市)が造成中(翌年完成)であり、少数派となった蝦夷は窮地に立たされていた。アテルイは、気脈(きみゃく)を通じた田村麻呂に説得され、和平の道を選んだと思われる。

 田村麻呂はアテルイとモレを伴って京にあがると、朝廷に助命嘆願したが、拒まれた。8月13日、蝦夷の英雄と称えられたアテルイとモレは、河内(かわち)国の杜山(もりやま)(不詳)で斬首された。

 なお、平成6年(1994)、京都・清水寺の境内に「北天の雄 阿弖流為母禮之碑」、平成19年(2007)には、大阪府枚方(ひらかた)市の牧野公園内に「伝阿弖流為母禮之塚」の碑が建立された。

▲胆沢城跡(奥州市)。坂上田村麻呂がアテルイ軍を抑え込み、この地を平定するために造営した。多賀城から鎮守府を移し、奥州の拠点として10世紀後半まで機能したという。
 
平泉の前史は死闘の日々だった
安倍氏と清原氏の興亡

戦乱の渦に巻き込まれた藤原清衡は死生をかいくぐって浄土思想に開眼――。

悲嘆を乗り越え、平泉の奇跡は生まれた。

 
前九年合戦で安倍氏は滅び実父・経清も処刑されたが清衡は九死に一生を得た
▲「前九年合戦絵詞」(一部) 陸奥守源頼義と奥六郡の豪族安倍氏が争った前九年合戦の様子を描いた鎌倉時代の絵巻物。場面は弓の名手として知られた頼義の子・義家が白馬にまたがり(写真中央)、馬上の敵将を矢で射抜いたところ。左側には応戦する安倍頼良の子らの姿も見える。(国立歴史民俗博物館蔵・重要文化財)

 

▲安倍館遺跡(盛岡市) 安倍貞任が置いた最北の拠点「厨川の柵」擬定地の一つ。清原氏の参戦で攻勢に出た頼義に攻められて陥落し、安倍氏は滅んだ。(写真提供/盛岡市教育委員会)

 平安中期、陸奥国では奥六郡(おくろくぐん)(岩手県内陸部)を拠点にした安倍氏(あべし)が全盛期を迎えていた。安倍氏は俘囚(ふしゅう)の血を引く豪族から在庁官人(ざいちょうかんにん)(地方官僚)にとりたてられ、勢力を拡大したとみられる。

 永承(えいしょう)6年(1051)、陸奥守の藤原登任(ふじわらのなりとう)は、貢租(こうそ)滞納を理由に安倍頼良(よりよし)を攻めた。頼良には実子の貞任(さだとう)、宗任(むねとう)、正任(まさとう)ら勇猛な武者が揃っており、玉造郡鬼切部(たまつくりぐんおにきりべ)(宮城県)で朝廷軍に圧勝した。

 これが、12年にわたる争乱の端緒となる。のちに前九年合戦(前九年の役(えき))と呼ばれる死闘の始まりであった。

 翌7年、源頼義(みなもとのよりよし)が陸奥守(のち鎮守府将軍を兼任)として着任した。頼義は誉れ高い武将である。頼良は恭順し、同じ読みを憚(はばか)って頼時(よりとき)と改名した。

 天喜(てんぎ)4年(1056)、頼義が胆沢城から多賀国府への帰途、阿久利(あくと)川(宮城県栗原市にあった川とみられる)で、何者かに襲撃された。貞任の仕業と見た頼義は頼時に貞任を引き渡すように命じた。頼時はこれを拒否して挙兵。朝廷から頼時追討の宣旨(せんじ)を受けた頼義と激突した。

 陸奥国司だった藤原経清(ふじわらのつねきよ)は、頼時の女(むすめ)(有加一乃末陪(あるかいちのまえ))を娶(めと)っており、この年、息子を授かった。のちに奥州藤原氏初代となる清衡(きよひら)である。内通者の疑いをかけられた経清は、頼時を頼った。

 翌5年7月、頼時は戦傷がもとで死去。安倍軍を率いた貞任は11月、黄海(きのみ)(一関市)で頼義、義家(八幡太郎)父子の軍勢を討ち破った。頼義は出羽国(でわのくに)の清原(きよはら)氏に加勢を要請した。

 康平(こうへい)5年(1062)、清原武則(たけのり)は1万の兵を率いて頼義に馳せ参じた。総勢1万3千に膨れあがった頼義の軍勢は、衣川関(ころもがわのせき)、鳥海柵(とのみのさく)(金ケ崎町)などを攻略し、貞任の本拠地だった厨川柵(くりやがわのさく)(盛岡市)を攻め落とした。宗任などは助命されたが、貞任ら一族の大半は処刑され、奥州の安倍氏はここに滅亡した。

 経清は朝廷に弓を引いた罪人として鋸(のこぎり)挽(び)きの刑で斬首された。嫡男清衡も死を覚悟したが、九死に一生を得た。

 
骨肉の争いとなった後三年合戦で地獄を見た清衡は仏教に帰依した
▲「後三年合戦絵詞」(部分) 出羽の豪族清原氏と、陸奥守源義家・清原(藤原)清衡との間で戦われた後三年合戦の様子を描いた鎌倉時代の絵巻物。場面は、義家が金沢柵へ行軍中の様子を描いたもので、空を飛ぶ雁の列の乱れから敵の伏兵に気付いた義家が、矢を射かけようとしている。(重要文化財、東京国立博物館蔵)出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/)

 

 清衡の命を預かったのは、清原武則の嫡男武貞(たけさだ)だった。武貞は死罪となった藤原経清の未亡人を娶った。清衡はその連れ子として生き永らえた。

 安倍氏に代わって奥州の覇者となった清原氏だったが、武貞が亡くなると一族のなかで軋轢(あつれき)が生じた。

 家督を継いだのは、武貞の正妻を母とする真衡(さねひら)だった。清衡には母を同じくする異父弟(いふてい)の家衡(いえひら)がいた。

 永保(えいほう)3年(1083)、源義家が陸奥守として多賀国府に着任した。真衡は父のよしみで恭順の姿勢をとると、かねてから不仲だった叔父の吉彦秀武(きみこのひでたけ)を討たせてくれるように願い出た。

 真衡が許しを得て出羽に出陣すると、吉彦秀武と通じていた清衡と家衡は、真衡の拠点だった白鳥舘(しろとりだて)(奥州市)に攻め入った。だが、事前に察知していた家臣団が防備を固めていたうえ、義家が加勢したことから大敗してしまった。

 万事休す。降伏した清衡は斬首は免れないと覚悟したが、思いがけなく出羽に出陣した真衡が急死してしまった。

 裁定役の義家は、奥六郡のうち南の三郡を清衡に、北の三郡を家衡に分与した。この裁定に家衡は不満を募らせた。

 応徳(おうとく)3年(1086)、家衡は軍勢を率いて清衡の館を急襲した。清衡はあやうく難を逃れたが、妻子を含む一族は惨殺された。清衡は命からがら多賀国府にたどり着き、義家に家衡の暴挙を訴えた。義家は清衡に大義があると認めた。

▲平安の風わたる公園(秋田県横手市) 後三年合戦跡の西沼を中心に整備された歴史公園。源義家が金沢柵に向かう途中、この沼を通った際に飛んでいた雁が突然列を乱したことから伏兵を察知し、難を逃れたという。

 寛治(かんじ)元年(1087)、清衡と義家の軍勢は、家衡の拠点だった金沢柵(かねざわのさく)(秋田県横手市)に攻勢をかけた。

 家衡、家衡の叔父にあたる武衡(たけひら)は、難攻不落の柵に立てこもった。清衡は吉彦秀武の提案で兵糧攻(ひょうりょうぜ)めにした。

 同年11月、飢餓状態に陥った将兵とその家族は柵に火を放ち、逃亡をはかった。家衡と武衡は討ちとられ、清原氏は悲劇的な結末を迎えた。

 一連の骨肉の争いは、後三年(ごさんねん)合戦(後三年の役)と呼ばれる。血で血を洗う地獄を見た清衡は、戦乱のない世を希求(ききゅう)し、仏教に帰依(きえ)した。仏都・平泉は、清衡の高邁(こうまい)な理念から始まった。

▲中尊寺東物見から望む衣川古戦場跡(奥州市) 安倍頼良(頼時)が本拠を構え、政庁を置いたとされる安倍氏の重要拠点「衣川柵」があった場所。周囲には関連する多くの史跡が残る。
 
奥州藤原氏三代
100年にわたる仏都・平泉の栄枯盛衰

戦乱の世を生き延びた清衡は、犠牲者の霊を弔い、浄土思想に根差した黄金楽土をめざした。

基衡、秀衡はその理念を受け継ぎ、荘厳な仏都を築いた。

▲中尊寺の対岸にある束稲山(たばしねやま)から朝日が昇り、朝焼けに染まる北上川。平泉が栄華を極めた当時、束稲山には京の東山になぞらえて山腹一面に桜が植えられていた。
 
末法思想が流布するなか清衡は朝廷の認可を得て仏都づくりに専心した
▲奥州藤原氏初代・清衡像(毛越寺蔵「藤原三代像」より)

 奥州の覇者になった清衡は、非業(ひごう)の最期(さいご)を遂げた父・経清の姓である藤原を名乗った。仏都・平泉を築いた氏族が奥州藤原氏と呼ばれる所以(ゆえん)である。

 同時に、清衡は母が蝦夷の系譜に連なる安倍氏の出自(しゅつじ)であることを自負し、「東夷(とうい)の遠酋(えんしゅう)」「俘囚(ふしゅう)の上頭(じょうとう)」と称した。

 後三年合戦から2年後の寛治(かんじ)3年(1089)、清衡は陸奥押領使(おうりょうし)に任ぜられ、奥六郡を領した(時期は諸説あり)。

 嘉保(かほう)元年(1094)ごろ、それまで拠点にしていた江刺郡(えさしぐん)豊田館から磐井郡(いわいぐん)平泉へ移った。

 当時、世の中には、釈迦の正しい教えが衰退する時期に入ったとする末法(まっぽう)思想が流布(るふ)し、京の貴族らは来世での救済を願って寺院を建立し、寄進していた。

 清衡は朝廷との融和を心がけたうえ、国家鎮護を目的にした寺院の造営を朝廷に願い出た。末法の世と呼ばれる時勢とも重なり、認可された。

 清衡は長治(ちょうじ)2年(1105)、関山(かんざん)において中尊寺の造営に着手した。仏師や宮大工、彫金など一流の職人を招き、美術工芸の高度な技法が注がれた。

 中尊寺には、多宝塔(たほうとう)を皮切りに寺塔(三重塔)や堂宇が次々に完成した。高僧を招聘(しょうへい)し、禅坊も造られた。関山一帯に京にも劣らぬ伽藍(がらん)が現出した。

 この間、金山の開発、駿馬の飼育、奥州を縦断する奥大道(おくだいどう)の整備などを進め、仏都(仏国土)の基盤を固めた。

 交易では、国内だけではなく、宋(そう)(中国)から貴重な『一切経』を輸入したり、北方貿易に力を入れたりと、さながら国際都市の様相を呈した。

 清衡は後三年合戦が終わったとき、31歳だった。それ以降、浄土思想に根差した黄金楽土づくりに専心した。

 今日(こんにち)、国宝として知られる金色堂(こんじきどう)は、天治(てんじ)元年(1124)に完成した。

 大治(だいじ)元年(1126)3月24日、清衡は、中尊寺落成を祝う大法要を空前の規模で執り行った。この間、月日は流れ、清衡は70歳になっていた。

 このとき清衡が読みあげたのが、『中尊寺(落慶(らっけい))供養願文(がんもん)』である。8年ほどかけて書写させた『紺紙金銀字交書一切経(こんしきんぎんじこうしょいっさいきょう)』も落慶に花を添えた。

 
中尊寺供養願文の万人平等を謳う理念は普遍的な価値を持つ
▲金色堂新覆堂(中尊寺)

 

 仏教に帰依した清衡の思いは、中尊寺建立の趣旨を綴った『中尊寺供養願文』から読みとれる。

 原文は現存しないが、国指定重要文化財の写本2通、「(藤原)輔方(すけかた)本」と「(北畠)顕家(あきいえ)本」には、清衡の高邁な理念が謳(うた)われている。

 願文には、奥羽の安寧(あんねい)、国家の安泰祈願とともに、大鐘を造った趣旨として「鐘を打ち鳴らすたびに、官軍や蝦夷を問わず、人間だけでなく獣や鳥、魚介まで犠牲になったすべての霊を慰め、極楽浄土に導きたい」と明記されている。

 前九年・後三年合戦でこの世の地獄を見た清衡にとって、戦乱のない世こそ最も望むものだった。それは奥羽だけでなく、国家そのものにもあてはまる。

 清衡は官軍だろうと蝦夷だろうと命の重さに違いはないと考えたうえで、戦乱で失われた人命だけでなく、獣や鳥、魚介までを弔いたいと願った。

 21世紀になってもなお戦禍がやまないなか、万民平等の平和理念は時を超えて人類に訴える普遍的な価値を持つ。

 ユネスコ憲章の前文には、「人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」との一文がある。それは清衡の理念にも通じる。

 落慶大法要の2年後、大治3年(1128)、奥州藤原氏初代の清衡は、仏都づくりに邁進(まいしん)したうえ、永久の平和を願いながら大往生を遂げた。享年73。遺骸は金色堂内陣の須弥壇(しゅみだん)に葬られた。

▲紙本墨書中尊寺供養願文(冒頭部分) 中尊寺供養願文は、中尊寺の堂塔伽藍の落慶の折に清衡によって読み上げられた書面といわれるが、原本は残されていない。(中尊寺蔵)
 
清衡の理念を受け継いだ基衡は浄土庭園のある毛越寺を建立した
▲観自在王院跡。毛越寺の東に接して基衡の妻が建立した寺院跡。大阿弥陀堂と小阿弥陀堂があったが、天正元年(1573)に焼失。今も残る「舞鶴が池」は日本最古の庭園書「作庭記」の作法通りに造られた。

 

▲奥州藤原氏二代・基衡像(毛越寺蔵「藤原三代像」より)

 清衡は戦のない世を願ったが、皮肉なことに家督相続をめぐり、長男(異母兄(いぼけい))惟常(これつね)と次男基衡(もとひら)が対立した。

 背景には、清原氏の女(むすめ)(以下、娘)を母とする惟常、安倍氏の娘を母とする基衡双方の家臣団の勢力争いがあった。

 基衡は惟常を討ちとり、奥州藤原氏の2代目に就いた。だが、父と同様に骨肉の争いをくり返してしまった。そのことを悔いた基衡は、清衡の理念をより切実に実感し、仏都づくりを宿命のように受けとめたのかもしれない。

 基衡は清衡の追善供養として、『法華経』を金泥(きんでい)で書き写す写経供養を行い、塔山(とうざん)の麓に毛越寺を造営する。

 鎌倉時代に編纂(へんさん)された『吾妻鏡(あずまかがみ)』によれば、堂塔は40宇、禅房(僧坊)は500宇もあったという。

▲毛越寺本堂

 毛越寺には、今日(こんにち)その代表的な遺構として知られる浄土庭園・大泉が池を囲むように伽藍(がらん)が建立された。

 中心になった堂宇は、金堂の円隆寺(えんりゅうじ)である。基衡は本尊「薬師三尊十二神将像」を、京の仏師雲慶(うんけい)(運慶とは別)に砂金百両など破格の報酬で依頼した。

 浄土庭園を挟んだ円隆寺の向かいには、南大門(二階惣門(そうもん))があり、池に面して常行堂(じょうぎょう)、経堂などが配置された。

 円隆寺とともに、嘉祥寺(かしょうじ)(昔は嘉勝寺)も建造されたが、基衡は落成前に他界したため、三代秀衡が完成させている。

 基衡の正妻は、安倍宗任の娘と伝わる。ちなみに、宗任は前九年合戦で助命されたのち、最終的に筑前国の宗像(むなかた)(福岡県)に流され、安倍氏の血脈を伝えた。

 基衡の妻は、毛越寺に隣接した観自在王院(かんじざいおういん)を建立した。ここにも舞鶴(まいづる)が池を中心にした浄土庭園がつくられた。

 基衡の代には大きな戦乱はなかったが、危うい出来事は何度かあった。

 康治(こうじ)元年(1142)、陸奥守の藤原師綱(ふじわらのもろつな)は、信夫(しのぶ)郡(福島市)の公田(くでん)を検注(けんちゅう)(検地)しようとした。基衡の家人(けにん)で地頭の佐藤季治(すえはる)(季春)がこれを妨害したことから、師綱は季治を処刑した。基衡は砂金1万両と引き換えに助命を嘆願していたが、拒否された。

 基衡は前九年・後三年合戦の二の舞だけは演じたくないとの思いがあったのだろう。隠忍自重(いんにんじちょう)して難を免(まぬが)れた。

 基衡は保元2年(1157)3月に急逝(きゅうせい)した(年齢不詳)。

 
栄華を誇った平泉は秀衡の死で終焉を迎えた
▲秀衡が建立した無量光院の復元イメージCG。伽藍の中心線が背後の金鶏山へとつながる。(資料提供:平泉町教育委員会、復元考証:京都大学大学院教授冨島義幸、CG作成:共同研究者竹川浩平)

 

▲奥州藤原氏三代・秀衡像(毛越寺蔵「藤原三代像」より)

 奥州藤原氏三代の秀衡は、基衡の遺骸を祖父清衡と同じく、金色堂の須弥壇に納めた。さらに、追善の『紺紙金字法華経』の書写を行うなど浄土思想の理念を受け継ぎ、仏都の完成をめざした。

 新たな伽藍としては、宇治平等院鳳凰(ほうおう)堂に倣った無量光院(むりょうこういん)を建立した。背後には、山頂に雌雄一対の金の鶏を埋めたと伝わる金鶏山(きんけいざん)がある。

 秀衡の代、中央政権の実権は、平治(へいじ)の乱(1159)で源氏を打ち負かした平家(平氏)が握っていた。

 平家棟梁(とうりょう)の平清盛(たいらのきよもり)は秀衡に一目置いており、その動向を注視していた。

 嘉応(かおう)2年(1170)、秀衡は清盛の推挙で鎮守府将軍に任ぜられた。秀衡は名実ともに「北方の王者」(作家・大佛次郎(おさらぎじろう)の言葉)としての地位を得た。

 治承(じしょう)4年(1180)8月、伊豆に配流されていた源頼朝(みなもとのよりとも)が挙兵した。

 秀衡は、頼朝の異母弟(いぼてい)にあたる義経(よしつね)を庇護(ひご)していた。挙兵を知った義経は秀衡の制止を振り切って、平泉を立った。

 義経は八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍で平家を追い詰め、元暦(げんりゃく)2年(1185)3月24日、ついに壇ノ浦で滅ぼした。

 ところが、頼朝の変心により、義経は謀反人(むほんにん)として追われる身となり、平泉に舞いもどってきた。

 秀衡は鎌倉との決戦は避けられないと覚悟したが、病に罹(かか)り、文治(ぶんじ)3年(1187)10月29日に永眠した。

 頼朝にとって、秀衡のいない平泉は恐れるに足りない存在だった。四代泰衡(やすひら)を仕向けて義経を討たせると、文治5年(1189)、自ら大軍を率いて出陣し、奥州藤原氏を滅亡させた。ほぼ100年にわたる仏都・平泉は終焉(しゅうえん)を迎えた。

 

仏国土を表象した
平泉の黄金文化

清衡の平和理念は、基衡、秀衡に受け継がれ

世界でも類を見ない荘厳な仏都、仏教芸術を創りあげた。

残された浄土庭園などの遺構、美術工芸に、往時の栄華を偲ぶことができる。

▲「皆金色」と称される中尊寺金色堂の内陣。国宝である金色堂は螺鈿細工や漆の蒔絵、精緻な彫金などで装飾された12世紀の阿弥陀堂建築の最高傑作。
 
奥州藤原氏の浄土思想に根差した美術工芸の粋

 世界遺産に登録された平泉の文化遺産は、仏国土を表した中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山の5資産。往時の栄華を伝える建物は、中尊寺の金色堂(こんじきどう)と経蔵(きょうぞう)だけである。

▲中尊寺金色堂内陣天井

 金色堂の天地四壁(てんちしへき)は金箔で覆われ、内陣は金銀螺鈿(らでん)、蒔絵(まきえ)で荘厳(しょうごん)されるなど、美術工芸の粋(すい)が尽くされている。

 平泉の国宝は、金色堂、同堂内の諸像、天蓋(てんがい)、内具、螺鈿八角須弥壇、経蔵内具、『紺紙金字一切経(こんしきんじいっさいきょう)』、孔雀文磬(くじゃくもんけい)(鎌倉時代の作)など。これらに『供養願文』や須弥壇内納置棺及び副葬品などの重要文化財を合わせると3千点を超す。

 これらの至宝は、中尊寺境内の讃衡蔵(さんこうぞう)に収蔵・展示されている。

 散策路にある木造の金色堂覆堂(おおいどう)、経蔵も重要文化財に指定されている。

 毛越寺は特別史跡・特別名勝、観自在王院の庭園は名勝、無量光院跡は特別史跡、金鶏山は史跡に指定されている。

 

清衡発願の至宝
『紺紙金銀字交書一切経』
▲紺紙金銀字交書一切経(部分)

 

▲経箱

 国宝の『紺紙金字一切経(こんしきんじいっさいきょう)』と『紺紙金銀字交書(こうしょ)一切経』は、中尊寺経とも称される。清衡、基衡、秀衡の三代が中尊寺に奉納した供養経だが、寺外に流出したものが多い。

 中尊寺経の2739巻と経箱275合は、一括して国宝に指定されている。

 このうち清衡が発願(ほつがん)した『紺紙金銀字交書一切経』は、金字と銀字が1行ずつ交互に書写された至宝である。

 清衡は永久(えいきゅう)5年(1117)ごろから書写事業にとりくみ、中尊寺の落慶法要が営まれた大治(だいじ)元年(1126)3月までには完成させたとみられる。

 全体では4500巻(諸説あり)ほどあるとみられるが、中尊寺には15巻しか残っていない。

 高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)には、大半の4296巻と経箱315合(国宝)が所蔵されている。一説に豊臣秀次(とよとみひでつぐ)(秀吉の甥)が高野山に寄進したものといわれる。

 観心寺(かんしんじ)(大阪府河内長野市)には、166巻(重要文化財)が伝わる。東京国立博物館などにも所蔵されている。

 中尊寺経のうち、『紺紙金銀字交書一切経』を除いた2724巻の『紺紙金字一切経』は、秀衡の発願による。

 基衡は清衡の追善供養として『法華経』を金泥(きんでい)で書き写す写経供養をしているが、中尊寺経には含まれていない。

 ちなみに一切経とは、釈迦の教説や戒律、注釈などを含む経典の総称で、大蔵経(だいぞうきょう)とも称される。それら膨大な経典を宋などから入手した平泉の経済力と文化水準の高さは特筆に値する。

毛越寺【世界遺産】 二代基衡が造営に着手し、三代秀衡の時代に完成。大泉が池を中心とする浄土庭園がほぼ完全な状態で保存されている。
金鶏山【世界遺産】 中尊寺と毛越寺のほぼ中間に位置する標高98.6mの円錐状の山。平泉の都市造営の基準にされたと考えられている。
観自在王院跡【世界遺産】 毛越寺に隣接し、二代基衡の妻が造営したと伝えられる寺院跡。現在は住民憩いの史跡公園として整備されている。
無量光院跡【世界遺産】 三代秀衡が京都・宇治の平等院鳳凰堂を模して建立した寺院跡。池と後方の金鶏山が一体となって極楽浄土を表現した庭園は浄土庭園の最高傑作とされる。
中尊寺【世界遺産】 奥州藤原氏の初代清衡が浄土世界の精神的な中核として最初に造営した寺院。写真は金色堂新覆堂。

 

悲劇の武将
伝説に彩られた源義経

華々しい活躍をした若き英雄は、一転して謀反人とされ、平泉に没した。

だが、実は平泉を逃れて生き延びたという北行伝説で歴史ロマンをかきたてる

▲源義経画像(中尊寺蔵)

 

謎に包まれた義経の生涯 奥州藤原氏は予期せぬ形で歴史の表舞台から去った
義経堂(ぎけいどう)[平泉町] 北上川に面した丘陵・高館にある義経堂。天和3年(1683)に仙台藩主4代伊達綱村が、悲運の死を遂げた義経を偲んで建立した。中には義経の木像が安置されている。義経は文治5年(1189)閏4月30日、泰衡の急襲を受け、この地で妻子と共に自害したといわれている。

 源義経は平家を滅ぼした英雄(ヒーロー)ながら、異母兄(いぼけい)の頼朝に疑念を抱かれ、追っ手の目を逃れて平泉に帰参(きさん)した。

 文治3年(1187)9月、頼朝は朝廷から院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)(後白河法皇(ごしらかわほうおう)の文書)を秀衡に送らせ、「義経を擁(よう)し、反逆を企てているのではないか」とただした。秀衡は否定したが、頼朝の狙いは平泉攻略にあると見抜いた。

 折悪(おりあ)しく、秀衡は病が進行していた。末路を悟った秀衡は、義経を主君に結束するように言い残し、10月29日に永眠した。家督を継いだ泰衡、泰衡の異母兄である国衡(くにひら)、義経は起請文(きしょうもん)を書き、秀衡の遺言を守ると誓いあった。

 翌4年、頼朝は泰衡に対し、朝廷の宣旨(せんじ)、院庁下文を送り、義経の身柄を引き渡すよう再三にわたり要請した。

 文治5年(1189)、頼朝は朝廷に対し、相次いで奥州藤原氏追討の宣旨を出すように要請した。

 平泉では清衡以来、この地の安寧のため朝廷との融和をはかってきた経緯がある。だが、朝廷から追討の宣旨を出されたら朝敵になってしまう。

 追い詰められた泰衡は閏(うるう)4月30日、衣川館にいた義経主従を急襲。義経は持仏堂(じぶつどう)で妻子と共に自害した。享年31。首実検(くびじっけん)は6月13日、鎌倉の腰越浦(こしごえうら)で行われたが、日数がかかり過ぎたことから、のちに首は偽物との説が生まれる。

 後白河法皇の反対を押し切り、頼朝は大軍で北進し、8月8日、阿津賀志(あつかし)山(福島県)で奥州軍に大勝した。泰衡は9月3日、家臣の河田次郎に討ちとられ、奥州藤原氏は滅亡した。

伝説が導く北への道
北行伝説逸話の地 観福寺[一関市] 建久2年(1191)、工藤祐経(すけつね)の長男犬房丸(いぬぼうまる)が寺を建立して、円長法印を迎えて開山したといわれている。義経主従が投宿した際、四天王の一人亀井六郎重清が残したといわれる笈(おい)を所蔵。また、弘法大師の霊場八十八ヶ所の仏像が一番から八十八番まで安置されており、奇岩怪石の間の小径を辿って巡礼ができる。

 義経の不死伝説は、室町時代になってから広まった。御伽草子(おとぎぞうし)の『御曹子島渡(おんぞうししまわたり)』は、義経が秀衡から聞いた兵法書を手に入れるために蝦夷(えぞ)ヶ島(北海道)に渡るという冒険譚(ぼうけんたん)だが、ここに北行伝説の萌芽(ほうが)を見てとれる。

 室町時代初期までには完成したとみられる軍記物語『義経記(ぎけいき)』は、江戸時代に歌舞伎などに脚色され、悲劇の英雄としての義経像が庶民に浸透した。

 幕府の儒官(じゅかん)・林羅山(はやしらざん)が編纂(へんさん)に加わり、寛文(かんぶん)10年(1670)に成立した歴史書『本朝通鑑(ほんちょうつがん)』には、義経は蝦夷島に渡ったとの俗説が紹介されている。

 徳川光圀(みつくに)(水戸黄門)が明暦(めいれき)3年(1657)から編纂を始めた『大日本史』にも、義経生存説がとりあげられている。光圀はこれに飽き足らず、探検隊を乗せた「海風丸」を蝦夷に派遣した。探検隊は義経がアイヌの人々から「オキクルミ」(農耕・狩猟の神)として崇められていることなどを報告している。

 幕末には、長崎・出島で医学などを教えたドイツ人のシーボルトが、著書『日本史』に、義経が成吉思汗(チンギス・カン)になったとの説を紹介。

 大正13年(1924)、小谷部全一郎(おやべぜんいちろう)は、著書『成吉思汗ハ義経也(なり)』を発刊し、反響を呼んだ。

 ただし、アイヌ語研究家の金田一京助らは、これらの説を強く否定している。

 では、江戸時代に盛んになった北行伝説のルートが、具体的にとりざたされるようになったのはいつからか。

 実は、宮古市出身の郷土史研究家・佐々木勝三(1895~1986)の探索に負うところが大きい。

 佐々木は、江戸中期に盛岡藩士で儒者の高橋子績(しせき)が著した古文書に触発され、義経主従にまつわる伝承、伝説を求めて各地を訪ね歩き、考察を重ねた。

 昭和32年(1957)、『義経は生きていた』を刊行すると、一気に北行伝説を探る研究に火がついた。

 岩手県の内陸部や沿岸部、青森県、北海道などには、北行伝説を裏づけるような伝承、伝説が多く残されている。ゆかりの地を中心に、義経主従の物語を伝える活動が続けられている。

北行伝説逸話の地 風呂家[遠野市] 赤羽根峠を越えここに辿り着いた義経一行、この家に風呂をたてさせ入浴した。そんな縁からこの家の姓を「風呂」と呼ぶようになった。
北行伝説逸話の地 笛吹峠[遠野市] 義経が遠野から釜石へ辿った道は、仙人峠から大峰山、六角牛山の峰を伝いこの笛吹峠を越え、鵜住居川沿いに海辺に抜けたルートとされる。
北行伝説逸話の地 続石(つづきいし)[遠野市] 鳥居のようでもあり、強力無双で知られた弁慶がこしらえたものといわれている。二つ並んだ石の片方に、幅7m、奥行き5m、高さ2mの巨大な石が載っている。
北行伝説逸話の地 駒形神社[遠野市] 義経の愛馬「小黒号」が死んだため、ここに祠を建て葬ったと伝わる。

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