一関・平泉

大船渡線と私 開業100周年プレ企画

大船渡線千厩駅開通記念の看板を掲げて大にぎわいの本町通り商店街=1920年(佐藤写真館作製の記念絵はがきから)
戦中、戦後通学の足に 佐藤健三さん

 昭和19年4月から旧制気仙沼中学に入り、戦後の学制改革で中学・高校と6年間、大船渡線のお世話になった。

 客車の窓を開けておくと時々、燃料の石炭かすが飛んできて目に入り困った。発車の汽笛は近くで鳴るとビックリするほど大きく、思わず耳をふさぐほど。動きだす時に客車を引っ張る鉄同士のガチャガチャ音が今でも懐かしく耳の奥に残っている。

 同級生と千厩駅から気仙沼駅まで、戦時中なので決められた戦闘帽、巻き脚半とズック、布かばんを背負い登校。毎日が軍事教練のカリキュラム込みだった。苦痛なことも多かったが、ラジオから流れる昭和天皇の「終戦の詔書」を聞いて日本は敗戦国になったことを知った。それからは、世の中の価値観が逆転するのではないかの毎日。教科書も墨塗り、生徒は荒れていたね。

 大船渡線だけは満員で生きが良かった。兵役からの復員者、食糧難の買い出し部隊、疎開者の移動。車内は魚屋さんの大きな籠からにおいが漂っていた。大船渡線なしでは考えられないほどの盛況ぶりだったと思う。

 われら汽車通学生は元気な顔を見せていた。カービン銃を肩にした駐留米軍2人組兵士に話し掛け、生の英会話を覚えようと積極的だった。車内で即席英会話教室を開き、客車をつなぐ連結器の辺りに生徒が集まり、学校以上に盛り上がり面白かった。平和な風景そのもの。

 一ノ関駅を出発した蒸気機関車は、気仙沼駅まで下るように走る。その反対の上り線は、山に向かう坂道を登りながら走る。

 このため、たまには困ることがある。折壁、矢越、小梨の区間は道路と田んぼに並行して線路の上り坂がある。気象条件が悪ければC50形の蒸気機関車が客車を引っ張っても登れないことがあった。あえぐような音を立てて蒸気を出して進むが、鉄輪が「ズズズー」と滑って後ずさり。

 止まっては積んである滑り止めの砂をまいて走り直すがまた滑る。仕方なしに機関士と車掌が降り、調べてどうするかを思案する。

 原因はいろいろあるらしいが、四季を通じて気温や湿度、鉄路の条件が影響するという。何しろ山の中、両側の雑木林が窓に覆いかぶさるようで、夏場は刈り込みが間に合わないぐらい生い茂る。戦争で男手も不足している。雨上がりに木の葉や虫など油っ気のある物が付着し、機関車のけん引能力不足も加わる。

 乗客の大半は承知しているので騒がない。たまに「滑るから皆で降りて押そうか?」なんてちゃかす生徒もいる。

 駄目と分かると気仙沼保線区に連絡する。応援機関車が駆け付けると、あぜ道で暇をつぶしていた乗客たちは「来た来た」と、中には手を振る生徒もいた。漫画みたいな風景で、生き物蒸気機関車だ。

 待ちくたびれていた客車の最後尾に応援機関車を連結して、客車5両をサンドイッチした列車はやっと動きだした。その間1時間ぐらいかな。畑仕事の手を休めて見ていたおばさんが「良かったね」と笑顔で見送ってくれた。

 令和の時代は便利な車社会。赤字路線の存続は怪しいが、鍋弦(なべづる)線とやゆされても沿線には観光資源が多々ある。ゆったりインバウンド(訪日客)観光路線として復活できないものだろうか。気になります。(横浜市中区)

momottoメモ

紙面の都合で、投稿いただいた文章の一部を編集、省略して掲載しました。これまでに紹介したエピソードは岩手日日ホームページで公開しています。

企画/一関市観光協会、岩手日日新聞社

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