大船渡線と私 開業100周年プレ企画
昭和22年生まれの私は幼少時から小学6年生まで、今は駐車場その他になっている一ノ関駅西口の旧国有鉄道官舎に住んでいた。近所には岩手日日新聞社があった。
父親は「山汽車」と呼ばれた蒸気機関車の機関士であった。戦前から国鉄に勤務し、戦中は陸軍の弘前師団に徴兵され満州に派遣された。鉄道隊に所属し、北のアムール川や興安嶺周辺まで出兵したという。終戦時はたまたま南のハルビンにいたので幸運にも帰国でき、そのまま国鉄勤務に戻った。東北本線勤務の時は南は長町駅から北は盛岡駅まで、大船渡線勤務の時は盛駅まで運転していた。
父親の実家は大船渡線で一ノ関駅の次の真滝駅にある。駅から北東に徒歩で15分くらいの芦沢の農家である。私は子どもの頃から一人でよく祖母や叔父を訪ねた。駅前には手押しポンプの井戸があり、駅西側には滝神社があった。
当時は駅員が多数いた。ポイントの切り替え業務、切符切り、運転手からの楕円(だえん)形の連絡用具の受け取りと、多忙な様子であった。まれに父親が運転する汽車にも乗車した。
夏休み中に大船渡線で一度だけ訪れる、高田松原の海水浴が楽しみであった。途中、たまたま増水した北上川を渡る数十秒が怖かった。折壁駅後の家が見当たらない山中で手を振る幼女を見たこともある。陸前高田駅から海水浴場はやや遠かったが、それも楽しみであった。泳げなくても海は楽しく、遠泳できるようになったときは格別であった。松林での昼食、夏でも冷たい水道水のうまさが忘れられない。この間、大船渡線は蒸気機関車からディーゼル車に替わった。
その後教員になり、サッカー部を千厩から松原グラウンドや気仙沼高校に引率し、時にはグラウンド隣接の合宿所に宿泊もした。大東高校のサッカー部顧問教諭は、宿から銭湯(当時は自宅やアパートには風呂が無いのが大半であった)が遠く、汽車で千厩の銭湯に通っていた。
千厩駅は上下線で千厩高校に来る生徒、上りで大東高校や一関の高校に向かう生徒、下りで気仙沼高校に向かう生徒で混雑した。
退職後は趣味の算額調査でよく陸前高田市を訪れた。情緒深いまち並み、魚料理、思い出のある美しい高田松原であったが、忌まわしい東日本大震災で一変した。
しかし、長年にわたる陸前高田の記憶は鮮明である。大船渡線のおかげで、今、車で出掛けたときは必ず駅を訪れるようになった。駅にはさまざまな顔があり、その風土が理解される楽しい場所である。
幼少時から定年後まで長くお世話になった大船渡線、そして陸前高田には感謝しかない。そして、今後は震災以前より素晴らしいまちをつくってほしい。可能なら大船渡線も復元してほしいと願う。(一関市真柴)