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岩手大陸2018【特集】義経北行伝説をたどる 文・松田十刻

❶観福寺[一関市]建久2年(1191)、工藤祐経の長男犬房丸が寺を建立して、円長法印を迎えて開山したといわれている。義経主従が投宿した際、四天王の一人亀井六郎重清が残したと言われる笈を所蔵。また、弘法大師の霊場八十八ヶ所の仏像が一番から八十八番まで安置されており、奇岩怪石の間の小径をたどって巡礼ができる。

 悲劇の英雄、源義経(みなもとのよしつね)ほど多くの伝説に彩られ、時代を超えて、愛されているヒーローは珍しい。なかでも、義経主従はひそかに平泉を逃れて北へ向かった、という不死・北行伝説は、歴史のロマンをかきたててやまない。

【いわにちコレクションでは紙面版「岩手大陸2018」全ページをご覧いただけます】


まつだ・じゅっこく

本名 高橋文彦。昭和30年(1955)盛岡市生まれ。立教大学文学部卒。盛岡タイムス、岩手日日新聞社で記者をしたのち、フリー編集者などをしながら創作活動を続ける。歴史ミステリー、戦記、時代小説、評伝など多彩なジャンルで作品を発表。出版契約が切れた作品、未収録の作品などは「Jukkoku book」と銘打ち、電子書籍として刊行。『颯爽と清廉に・原敬』『ネヴァ河のほとり・魂のイコン』(一部改題)など本名で発表した作品の電子書籍化も進めている。近著に、戦国時代から江戸初期にかけて実在した女大名の波乱の生涯を描いた『清心尼(せいしんに)』(盛岡タイムス)。

▲高館は平泉中心部にある丘陵で、北上川に面した天然の要害。兄頼朝に追われた義経の館があったことから、地元では「判官館(ほうがんだち)」とも呼ばれている。
『吾妻鏡』と『玉葉』のはざまで
義経の最期を伝えるもの 泰衡から頼朝への書状
▲義経堂[平泉町]北上川に面した丘陵・高館にある義経堂。天和3年(1683)に仙台藩主4代伊達綱村が、悲運の死を遂げた義経を偲んで建立した。中には義経の木造が安置されている。義経は文治5年(1189)閏4月30日、泰衡の急襲を受け、この地で妻子とともに自害したといわれている。

 鎌倉幕府が編纂(へんさん)した歴史書『吾妻鏡(あずまかがみ)』には、義経主従は文治5年(1189)閏4月30日、藤原基成(ふじわらのもとなり)の衣河(衣川)の館で、藤原泰衡(やすひら)の従兵数百騎に襲撃され、義経の家人らはことごとく敗績(はいせき)したうえ、義経は持仏堂で妻子を殺したのち自害した、と綴られている。『吾妻鏡』は鎌倉時代末期に成立したと考えられ、義経の最期(さいご)に関しては、ざっと80年ほどあとに記されたとみられる。

 同時代の記録では、公卿(くぎょう)、九条兼実(くじょうかねざね)の日記『玉葉(ぎょくよう)』がある。兼実は5月29日付で、前月末に義経が泰衡によって殺されたという伝聞を記している。兼実にそのことを教えたのは、京都守護の一条能保(いちじょうよしやす)だった。能保の妻は、源頼朝(みなもとのよりとも)の姉ないしは妹にあたる。能保は、頼朝と不仲になったあとの義経の探索を指揮している。その関係で鎌倉の頼朝は能保に、平泉の泰衡が差しだした書状の内容を伝えたのである。が、日記には、義経が妻子を殺して自害したとの記述はない。『吾妻鏡』の編纂者は、創作を加えたのかもしれない。

 これが、室町初期までに成立したと思われる軍記物語『義経記(ぎけいき)』(作者不詳)では、弁慶の立ち往生など、劇的に場面を盛りあげるために大胆に脚色される。

▲判官森[宮城県栗原市栗駒]平泉で自害し、首を鎌倉へと送られた義経の胴体が葬られたと伝えられる丘陵。山頂部には義経の胴塚とされる五輪塔と石碑が建ち、石碑には「大願成就上拝源九郎官者義経公 文治五年閏四月二八日」の文字が刻まれている。
首の真贋を巡る謎 腐乱して判別は困難

 『吾妻鏡』によれば、5月22日に、泰衡の飛脚(使者)が鎌倉を訪れ、「義経の首級を鎌倉へ送る」と申し伝えている。ただし、6月9日に頼朝の亡き母の供養があることから、一行は13日に腰越(こしごえ)に入った。首実検(くびじっけん)には和田義盛(わだよしもり)、梶原景時(かじわらかげとき)があたった。首は漆黒の櫃(ひつ)に納められ、清美の酒に浸されていた。見る者は皆、涙を拭い、袂(たもと)を湿らせたという。だが、死後43日、塩漬けではないために、夏の暑さ(6月は新暦で8月初旬)で腐乱し、見分けがつかないはず、などの疑念が浮かぶ。首は偽物という説が生まれるゆえんである。

北行伝説の今昔物語
義経の冒険譚『御曹子島渡』
▲源義経画像(中尊寺蔵)

「義経は、やはり生きていた!」

 鎌倉御家人をふるえあがらせる出来事が、文治5年(1189)12月、奥州で起こった。泰衡の旧臣、大河兼任(おおかわかねとう)が「義経」と称し、挙兵したのである。頼朝が平泉の奥州藤原氏との合戦を終えて、鎌倉にもどってわずか2カ月後のこと。乱は鎮圧されたが、勇名を馳せた義経の記憶がまだ生々しいとあって、生存説がちまたに広がったことは想像に難くない。

 室町時代には、「一寸法師」や「浦島太郎」など、のちに御伽草子と呼ばれる作者不詳の物語が多くつくられる。そのひとつ「御曹子島渡(おんぞうししまわたり)」は、青年時代の義経が秀衡から聞いた北の国にあるという兵法書を手に入れるために、裸の人間ばかり住む島や女だけの住む島などを巡り、ついには蝦夷ヶ島(北海道)へ渡って、大王が所持する兵法書を書き写すという奇想天外なストーリー。『ガリバー旅行記』を彷彿(ほうふつ)させるこの冒険譚は、義経の不死伝説、北行伝説に大きな影響を与える。

 同じく室町時代に成立したとみられる軍記物語『義経記』は、江戸時代になって盛んに読まれ、義経や弁慶の物語は歌舞伎などに脚色されてもてはやされた。

 義経の生存説が公に記されたのは、幕府の儒官、林羅山(はやしらざん)が編纂に携わった歴史書『本朝通鑑(ほんちょうつがん)』(寛文10年〈1670〉成立)。源義経の項で「義経は死なずに蝦夷島に至る」との俗説を紹介している。

 さらに、水戸黄門こと水戸光圀(みつくに)によって明暦3年(1657)に編纂が始まった『大日本史』でも、義経生存説をとりあげている。光圀はそれだけでは飽き足らず、探検隊を乗せた「海風丸」を蝦夷へ派遣。探検隊は蝦夷地に義経や弁慶に関した地名が多く、義経がアイヌの人々に「オキクルミ」(農耕・狩猟の神)として崇められていることなどを報告している。

 江戸中期の儒学者で幕政に参与した新井白石も政治史『読史与論(とくしよろん)』の中で、「蝦夷の地に義経の家の跡がある」と北行伝説を裏づけるような記述をしている。

 義経が生きていたとしたら、首級は誰のものか。江戸時代中期の医師、加藤謙斎(かとうけんさい)は、『鎌倉実記』に「首は杉目太郎行信(すぎのめたろうゆきのぶ)のもの」と記し、身代わり説を紹介している。行信は杉妻(のち杉目)城(福島市)の城主で、父は佐藤基治(さとうもとはる)と言われる。基治といえば義経の軍学の師であり、義経の家臣として知られる佐藤継信(つぐのぶ)、忠信(ただのぶ)の父でもある。行信の身代わり説を思わせる史跡は宮城県栗原市(旧金成町)にある。

平泉と蝦夷との空白を埋める北行伝説のコース

 江戸時代、義経は蝦夷へ渡ったという説はあったが、そこに至るルートは空白のままだった。今日の義経北行コースは、地図からもわかるように、平泉町、一関市、奥州市、住田町、遠野市、釜石市、宮古市、久慈市などを経て、青森県、北海道へ続く。では、いったい、いつ、誰によって北行コースが主張されたのであろうか。

 実は、岩手を含む北東北における空白部分が実証的に埋められたのは、昭和に入ってから、それも戦後のことになる。

伝説で繋がる北への道
郷土史家の功績 古文書が伝える不死説
▲一関市大東町猿沢の観福寺にある磨崖碑(まがいひ)。観音堂をとりまく岩石群に、梵字や菩薩名、経文のようなものが刻まれている。平泉を脱出した義経主従は、この寺で一夜を過ごしたという。投宿の礼に残されたという義経四天王の一人・亀井六郎重清愛用の「笈」が、寺宝として今も伝えられている。

 今日の義経北行コースは、宮古市出身の郷土史研究家、佐々木勝三(1895~1986)の功績に負うところが大きい。戦後、勝三は高校教師のかたわら、同市の『横山八幡宮記』編纂のため膨大な古文書を読み解いた。その過程で『横山八幡宮縁起(えんぎ)』『奥州南部封域志』『源廷尉義経』などに義経の記述があることに驚く。

 これらを著(あらわ)したのは、盛岡藩士で宮古代官に仕えた儒者の高橋子績(しせき)(1700~81)である。江戸中期、幕府は寺社の縁起など地史の探訪を奨励。子績は『沢内風土記(ふどき)』などの著作を物にした。『横山八幡宮縁起』によれば、義経主従が参籠し、『大般若経』を奉納したという。

 子績の著書に触発された勝三は、神社仏閣、史跡など義経主従にまつわる伝説、伝承、逸話などを求めて各地を訪ね歩き、考察を重ねた。その結果、伝説の点と点を結んでゆくと、北へと繋がる線ができることに着目。昭和32年(1957)に『義経は生きていた』を刊行すると、大きな反響を呼んだ。その後も研究に情熱を燃やし、『源義経蝦夷亡命追跡の記』『義経伝説の謎 成吉思汗は源義経か』(ともに共著)を刊行している。

平泉から遠野へ 逸話が残る風呂家

 勝三は、従来の歴史書に加え自分で読み解いた古文書などから考察し、大胆な仮説を交えた「北行伝説年表」を作成している。年表によると、秀衡が亡くなった翌年の文治4年(1188)4月、義経主従は高館を去り、長部(おさべ)(平泉町長島)の佐藤基治の邸に投宿したあと、束稲山(たばしねやま)を通り、❶観福寺(一関市大東町猿沢)に泊まった。その後、江刺郡、気仙郡を経て上閉伊郡へと至る。

▲続石[遠野市]民俗学者・柳田國男の「遠野物語」にも記述がある巨石遺構。二つ並んだ石の片方に、幅7メートル、奥行き5メートル、高さ2メートルの巨大な石が載っている。鳥居のようでもあり、強力無双で知られた弁慶がこしらえたものといわれている。

 伝説が残る遺跡をあげると、奥州市江刺には、義経主従が投宿し鈴木三郎重家(しげいえ)の笈(おい)を残したという多聞寺、主従が参拝した❷玉﨑神社、住田町上有住葉山には、❸判官手掛けの松など。赤羽根峠を越えて遠野に入ると、❹風呂家、❻駒形神社、日出神社、続石(つづきいし)など枚挙に暇がない。特に風呂家にまつわる逸話は興味深い。遠野からは❺笛吹峠を越えて釜石へ向かったという。

佐伯信乃婦さん(観福寺寺族) 今でも義経を慕って寺を訪れる人が後を絶ちません。よほど魅力があった人だったのでしょうね。頼朝のため、源氏のために一生懸命頑張ったのですが、報われませんでした。不遇な身の上の人に心を寄せる「判官びいき」という言葉の語源にもなっていますが、やっぱり自分にも、そういった弱い立場の人を応援したくなるようなところはありますね。

風呂信さん 平泉から赤羽根峠を越えて上郷に来た義経に、先祖が風呂をたててあげたと伝えられています。そのお礼として義経から「風呂」の名字をもらったと、祖父や祖母から繰り返し聞かされました。他にはない名字ですし、誇りに思うような気持ちもありますね。今も一年を通して義経ファンの来訪がありますが、800年も前の人がこうして慕われているというのは本当に偉大なことですね。

伝承の地を歩く
釜石から宮古へ 二通りのコースをたどる
▲※岩手県宮古市から青森県八戸市までの北行伝説ルートには、陸路と海路の2説あります。※マップ上の場所などは、大まかな目安です。(岩手大陸2018・5ページ)

 釜石の橋野には、義経が鉄扇や文書を残していったとの言い伝えが残る❼中村判官堂、片岸町室浜には、主従が休息した場所に建立されたという法冠神社がある。

 釜石から宮古に至る北行コースは、大槌町、山田町など沿岸部を通るものと、旧川井村・旧新里村(現・宮古市)など北上山地を通るものとに大別される。

 大槌町には、義経主従が馬を繋いだという駒形神社、野宿をした場所に建立されたと伝わる❽宮ノ口判官堂、判官大明神、弁慶の手形石などがある。

 山田町には、義経主従が立ち寄ったという佐藤家、一行が泊めてもらったという大沢の判官屋敷の伝承が残る。

 旧川井村では、泰衡の弟にあたる泉三郎忠衡(ただひら)の末裔(まつえい)という泉沢家、弁慶ゆかりの道又家、判官神社、里人が静御前様と呼んできた鈴久名(すずくな)の⓱鈴ヶ神社など。

 旧新里村では、義経主従が『大般若経』を奉納したと伝わる日蔭平の判官堂、一行が参拝したという日月山神鏡宮など。

 宮古は、佐々木勝三が北行伝説の探索を始めた地域だけに綿密な調査が行われている。伝承によれば、大沢の判官屋敷を発った義経主従は十二神山を越え、豊間根を経て長沢に向かったという。

 長沢にある竹下家には、蝦夷へ向かうと知った先祖が同行を願ったところ、「ご厚志はかたじけないが、世を忍ぶ身であり、多くの従者を伴うことはできない」と断られたとの逸話が伝えられている。

 津軽石には、判官館跡と判官神社(判官社)、八木沢には、昔から「はんがんぽら」と呼ばれていた判官洞がある。

▲浄土ヶ浜[宮古市]宮古から八戸へは船で北上したという説もある。あるいは、義経ほか数名が海路をとり、ほかの者は陸路を行ったのかもしれない。一行に、この美しい風景を楽しむ余裕があっただろうか。日本の渚百選、日本の水浴場88選、かおり風景100選に選定される名勝。
伝説に彩られた横山八幡宮 宮古、地名の発祥地

 ❾横山八幡宮は、勝三が義経北行に着眼した場所。神主の重三郎は上洛し、土御門(つちみかど)天皇に拝謁した際、義経参籠などを言上、歌を詠むと、歌の二文字から宮古の地名を賜ったとの伝説がある。重三郎は義経の家来だった鈴木三郎重家の変名という。

 ほかに義経が『大般若経』を写経したという❿黒森神社、甲冑を埋めたという⓫判官稲荷神社、弁慶が積んだという籠石(こもりいし)(通称「かごいし」)、山口の小川家、千徳の成ケ沢家、田代の⓰久昌寺(きゅうしょうじ)、田老の吉内屋敷など、この地に長逗留(ながとうりゅう)したのではないかと思わせる遺跡が点在する。

 くしくも沿岸コースには、浄土ヶ浜など風光明媚(ふうこうめいび)な景勝地が多く、旅情にひたりながら伝説の地を散策できる。

小笠原康正さん(黒森神社総代) 黒森神社は、子供の頃から境内で遊んだりにぎやかなお祭りがあったりして親しみがある場所です。義経ゆかりの神社だと、よく聞かされました。義経が神社に納めたといわれる般若経は、今も氏子が保管しています。黒森神社のようなゆかりの場所や北行のルートが伝えられているということは、皆がそれほど義経を好きということなのでしょう。不思議ですね。

不死伝説は海を越えて
宮古から久慈へ 畠山重忠の伝承も

 岩泉町袰野(ほろの)(小本街道)の⓮加茂神社には、義経の子供を祭るとの伝承がある。

 普代村には、⓭鵜鳥(うのとり)神社がある。義経主従は疲れ果て、食料もわずかだった。牛追いの牧童に聞くと、土に「不行道」と書いた。この先に道はない。進退窮まった義経は卯子酉(うねどり)山で行を務め、中村丹後から稗(ひえ)を借りて証文を残した、という。

 田野畑村には、義経を追う畠山重忠(はたけやましげただ)の愛馬が倒れ、鐙(あぶみ)を埋めたという⓯畠山神社がある。重忠は奥州合戦でも先陣を務めた知勇兼備の武将。重忠の逸話は、久慈市長内の⓬諏訪神社へと繋がる。重忠は落ちのびる義経を哀れと思い、わざと矢を外した。松の木に当たった矢をご神体として祠に祭ったのが諏訪神社の縁起だという。

 勝三の義経北行コースは、昭和51年、岩手県観光課により「伝説義経北行コース」として開設され、伝説や由来などを記した立て看板が設置された。

▲義経北行伝説分布図(岩手大陸2018・11ページ)
青森から北海道へ アイヌ伝説と結びつく

 佐々木勝三は、義経主従は九戸郡を北上して青森県八戸市館越(たてごし)に入ったと唱えるが、八戸には、南部氏の故事を連想させる海路による八戸上陸伝説が多い。この地で亡くなった北の方を祭る「おかみ神社」など10カ所以上もゆかりの場所がある。義経主従は八戸から十三湊(とさみなと)の遺跡がある十三湖(じゅうさんこ)を経て、津軽半島最北端の三厩(みんまや)(現・外ヶ浜町)から蝦夷へ渡ったという。三厩の地名も義経伝説に由来する。

 北海道には、アイヌの伝説と結びついた義経主従の伝説が広く分布し、国後(くなしり)、択捉(えとろふ)にも伝承が残る。アイヌ研究家の金田一京助は、判官(ほうがん)びいきが数々の伝説をつくりあげてきたと主張している。

column 大陸渡航説と成吉思汗説

 江戸時代、義経が蝦夷に渡ったという説が流布すると、大陸渡航説へと発展する。さらに、成吉思汗(チンギス・カン)になったという突飛な説が生まれる。文献でその説を最初にとりあげたのは、長崎・出島で医学などを教えたドイツ人のシーボルト(1796~1866)。著書『日本』で、オランダ通詞(つうじ)の義雄忠次郎が「義経は成吉思汗になったと信じている」とし、モンゴル王朝と日本の朝廷の類似性などを指摘している。

 一般に知られるようになったのは、大正13年(1924)発行の小谷部全一郎(おやべぜんいちろう)著『成吉思汗ハ源義経也』(冨山房〈ふざんぼう〉)である。宮古の佐々木勝三も、ベストセラーになった同書に触発されて論証を続け、「成吉思汗=源義経」説を唱えている。

 義経伝説は、幕府による蝦夷やロシア、近代日本による大陸への関心が高まるにつれスケールアップしてきた感がある。時代が義経伝説を後押ししてきたと言えるのかもしれない。

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