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東日本大震災から11年 命守った防災教育 「釜石の出来事」振り返る 発生時 釜石東中校長 平野憲氏(北上市教育長)

釜石東中校長時に発生した東日本大震災を振り返る北上市の平野教育長。地域、学校一体となった防災学習、訓練の必要性を説いている

 東日本大震災発生時、釜石市立釜石東中学校の生徒たちは機敏に行動し、隣接する小学校の児童らも連れて高台へと避難。間一髪で危機を回避した。当時、同中学校の校長を務めていたのが現北上市教育長の平野憲氏(64)。生徒たちを動かしたのは、数年前から取り組んでいた防災教育だった。「釜石の出来事」と称される震災時の行動を振り返ってもらい、今後の防災教育の在り方を考えた。

 釜石東中は、約500メートル先に根浜海岸がある。過去に明治三陸地震(1896年)、昭和三陸地震(1933年)、チリ地震(60年)の津波に襲われているが、住民や生徒たちの防災意識は決して高くはなかった。

 2005年度に群馬大の片田敏孝教授(現東京大大学院特任教授)の協力で行った釜石市内の児童生徒、保護者、教職員対象のアンケートでは津波への知識、危機意識の欠如が明らかになった。平野氏も1983~92年度に同市の大平中、小佐野中に赴任しているが「当時の防災意識は低かった」という。防災教室、講演会を通じ、片田氏は避難の3原則「想定にとらわれるな」「最善を尽くせ」「率先避難者たれ」を提唱し、市民に浸透させた。

 釜石東中は2008年度に文部科学省の防災教育協力校指定を受け、取り組みがスタート。隣接する鵜住居小学校との小中合同避難訓練ではリヤカーやおんぶでの避難も実践し、住民に避難完了を告げる「安否札」を配布。ぼうさい甲子園大賞の宮古工高生徒を招いた実演学習では模型で津波がどう押し寄せるかメカニズムを学び、防災ボランティア活動も行った。

 防災教育の柱は「自分の命は自分で守る」「助けられる人から助ける人へ」「防災文化の継承」の3点。3年かけて全校挙げて取り組んだ。生徒の防災意識が育まれ、1年時から学んだ当時の3年生が卒業式を間近に控えた11年3月11日午後2時46分、巨大地震が発生した。

 平野氏は用務で校外におり、副校長が全生徒に「点呼は要らない!」「走れ!」と指示。登校していた約210人の生徒は教職員の声掛けでグラウンドには向かわず、あらかじめ避難所に決められていた学校から700メートル先の福祉施設「ございしょの里」へ向かい全速力で駆け出した。

 鵜住居小では当初、校舎3階に児童を避難させたが、懸命に逃げる生徒たちの姿を見た教職員が児童約350人を校外へ誘導。ございしょの里で生徒たちと合流した。

 ここで崖崩れが起き、近所の高齢女性が「今までこんなことはなかった。とんでもないことが起こる」と危機感をあらわにしたことで、さらに上を目指した。避難訓練と同様、生徒たちが児童の手を引き高台のデイサービスホームへと逃げたその時、後方から津波が押し寄せさらに高台へと走った。

 パニックになったり骨折したりしている児童生徒もいたが、多くの生徒は児童を落ち着かせて全力で標高約50メートルの「恋の峠」まで逃げ延びた。峠に到着後、最初に避難したございしょの里は水没。津波にのまれた街並みを見下ろした。

 峠付近には、1週間ほど前に三陸道の一部区間が開通。暗くなり雪が降る厳しい寒さの中、三陸道を走行していた見ず知らずの人が善意で車に児童生徒らを旧釜石一中まで乗せ、児童生徒らは同校で夜を明かした。電気、燃料もなくほぼ一人一枚の新聞紙で寒さをしのいだ。

 その後は甲子中に移り、自炊しながらの避難生活は約1カ月に及んだ。3月30日に同中で卒業式を行い、翌年度は釜石中で学校生活を送った。

訓練の重要性強調

 釜石東中では震災当日、学校にいた230人ほどの生徒、教職員が全員無事だった。命を救ったのは事前に学んだ防災教育と教職員らのとっさの判断だ。

 事前学習で、津波を想定し時速30キロの車と競走したり、3階からロープを14メートル垂らして津波の高さを推定。平野氏は「津波のスピードと高さをイメージできていた。訓練をしていなければ、迅速な動きは取れなかった」と言い切る。

 本来、いったん校庭に集まり行うはずだった点呼を省いた点も大きい。「点呼をしていれば時間をロスし、間に合わなかっただろう。無駄な動きがなかった」(平野氏)。副校長らの機転が多くの命を救った。最初に避難した場所で崖崩れが発生し、さらに高台を目指すきっかけになった高齢女性の警告も的確だった。

 一方、同じ鵜住居地区では防災センターに逃げた住民の多くが犠牲になった。同市内で死者・行方不明者は1100人を超え、釜石東中でも欠席中の生徒1人が死亡。父母らを亡くした生徒も少なくなく、家族を失った教職員もいた。

 この事例は当初「釜石の奇跡」と称されたが、同地区、市内での悲劇もあって後に「出来事」に改められた。「事前の防災教育に訓練の積み重ね、生徒の努力、それに運もあった」と平野氏。多くの児童生徒の命が救われたことは、決して奇跡ではないと強調する。

 震災後、生徒たちはPTSD(心的外傷)も懸念されたが、県内外で自らの経験を発表した。思い出して涙を流す生徒もいたものの、平野氏は「生徒たちが『伝えなければ』という思いと『自分たちは元気だ』と発信し、感謝の気持ちを伝えた」と代弁する。

 平野氏は、震災から学んだことに▽命の大切さ▽防災教育、訓練の大切さ▽何事にも真剣に取り組む姿勢▽地域や人とのつながりの重要性―を挙げる。「自分の命は自分で守ること。教育、訓練がしっかりしていれば臨機応変に対応できる。人とつながっていればいざというとき、互いに支え合える」と説明。「学校では子供たちの命を守るための最善の行動が必要だ」と力説する。

 内陸部では津波はないが風水害による川の氾濫、土砂崩れなどの危険性はどこにもある。平野氏は震災に加え、自身が消防団員を務めた経験も踏まえ、「地域、年代に応じた防災学習や地域を巻き込んだ訓練が必要。学校で何をしているかの発信も重要だ」と地域、学校一体の防災学習、訓練の必要性を説いている。


平野 憲氏(ひらの・けん) 北海道教育大卒。1980年度から中学校教諭を務め2010~12年度、釜石東中校長。その後北上北中、飯豊中校長を歴任し18年3月退職。同年6月から北上市教育長を務め、現在2期目。同市出身。

 

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