県内外

岩手大陸2019【特集】平泉の黎明 文・松田十刻

志波城古代公園(盛岡市)志波城は坂上田村麻呂が造営した古代陸奥最北・最大級の城柵。アテルイを滅ぼした翌年の延暦22年(803)に築造された。現在は外郭南門や築地塀などが復元整備された歴史公園となっている。

 安時代末期、奥州藤原氏は平泉を拠点に、高邁(こうまい)な平和理念に根差した仏教文化を開花させ、およそ100年にわたる栄華を誇った。だが、そこに至るまでには、蝦夷(えみし)の英雄と謳うたわれるアテルイのように中央政権に敢然(かんぜん)と立ち向かった先人がいた。平泉に「仏国土」が築かれる前には、安倍(あべ)氏や清原(きよはら)氏の興亡に見られるように、戦乱に明け暮れた苦難の前史があった。平泉の黎明期をたどることにしよう。

【いわにちコレクションで紙面版「岩手大陸2019」全ページをご覧いただけます】


まつだ・じゅっこく

本名 高橋文彦。昭和30年(1955)岩手県盛岡市生まれ。立教大学文学部卒業。盛岡タイムス、岩手日日新聞社で記者をしたのち、フリーランス(編集・ライター)などを経て、執筆活動に入る。第2回新潮ミステリー倶楽部賞(1997年)で「チャップリン謀殺指令」が最終候補に。同作品が、『チャップリン謀殺計画』(原書房)として出版されるに際し、選考委員の島田荘司氏より筆名を授かる。歴史ミステリー、戦記、時代小説、評伝と多彩なジャンルで作品を発表。出版社との契約が切れた作品、本に収録されていない作品、未発表の作品などはシンプルな表紙をつけたオリジナルの電子図書「Jukkoku book」として、Amazon・kindleに随時アップしている。筆名のほか、本名で発表した『颯爽と清廉に 原敬』『ネヴァ河のほとり・魂のイコン』(一部改題)などの作品の電子書籍化も進めている。近著に『清心尼』(盛岡タイムス)。

奥州藤原氏のルーツ

 平安時代末期、京都に次ぐ規模を誇り、かつ黄金文化による独自の仏教都市(仏都・仏国土)を築いた奥州藤原氏。その出自(しゅつじ)、つまりルーツをめぐっては、昔からさまざまに論じられてきた。なかでも、アイヌとの関係について、多くの学者が関心を抱いてきた。

▲奥州藤原氏初代・清衡像(平泉町・白王院蔵「藤原三代像」より)

 これらの疑問に一定の手がかりを与えたのは、昭和25年(1950)、金色堂(こんじきどう)に安置された藤原四代、清衡(きよひら)、基衡(もとひら)、秀衡(ひでひら)、泰衡(やすひら)の遺体に、初めて本格的に実施された学術調査である。その内容は、朝日新聞社編『中尊寺と藤原四代 中尊寺学術調査報告』で明らかにされている。

 それによると、藤原四代の遺体をX線撮影して調査したところ、身長や頭部のかたちなどから判断して、アイヌの特徴は認められないとの結論に至った。

 この調査では、死亡年齢や死因、血液型なども推定している。また、秀衡の三男忠衡(ただひら)の首級(しゅきゅう)(討ち取られた首)と伝えられていたものは、傷の痕が鎌倉幕府が編纂(へんさん)した歴史書『吾妻鏡(あずまかがみ)』(『東鑑』)の記述と一致したことなどから、泰衡の首であることがほぼ裏づけられた。

 ところで、藤原氏の諸系図は後世、歴史書と同様に中央支配階級によってつくられたものである。皮肉なことに、平泉の栄耀(えいよう)栄華は、『吾妻鏡』など勝者側が残した文献によってうかがい知ることができる。これに対し、敗者の歴史の大半は伝説や伝承となって各地に残されている。

 藤原氏のなかで最初に文献に現れるのは、初代清衡の父経清(つねきよ)である。

 前九年合戦(ぜんくねんかっせん)(1051~62年)の顛末(てんまつ)を描いた軍記物語『陸奥話記(むつわき)』、南北朝時代から室町時代初期につくられた系図集『尊卑文脈(そんぴぶんみゃく)』、永承(えいしょう)2年(1047)、奈良にある興福寺(こうふくじ)再建を記録した『造興福寺記』(同寺は藤原氏の氏寺(うじでら))などから、経清は国司(こくし)(地方官吏(かんり))として陸奥に下向(げこう)したことが明らかになっている。

 その先祖は、ムカデ退治の伝説で知られる俵藤太(たわらのとうた)の異名を持つ藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の流れをくむ坂東(ばんどう)武士(現在の関東を拠点とした武士)との見方が有力である。

 経清は安倍氏から妻を娶(めと)り、嫡男(ちゃくなん)清衡が生まれる。前九年合戦では源氏に反旗を翻して戦ったことから、合戦に敗れたあとは残酷な刑に処される。

 清衡も殺される運命にあったが、思いがけなく実母が源氏に味方した出羽の清原(きよはら)氏に再嫁(さいか)したことで助命される。

 後三年合戦(ごさんねんかっせん)(1083~87年)で、清原氏は滅びるが、藤原氏と安倍氏の血脈を継ぐ清衡は奇跡的に生き延びる。清衡は自ら「東夷之遠囚(とういのえんしゅう)」などと謙称するが、実は誇り高き蝦夷の魂を秘めていた。

まつろわぬ民の系譜
古代東北と中央政権
▲古代東北城柵の分布(7世紀~9世紀前半)

 日本の歴史における一般的な時代区分によると、縄文、弥生時代を経て古墳時代(3世紀中ごろ~7世紀ごろ)に至る。ヤマト王権の勢力が拡大するなか、その象徴的な遺跡である前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)が、各地の豪族によって造られた。

 岩手県奥州市には、前方後円墳としては最北端の角塚(つのづか)古墳(国の史跡)があり、古墳を覆う葺石(ふきいし)や素焼きの埴輪(はにわ)などが出土している。このことは5世紀末から6世紀にかけて、ヤマト王権からお墨付きをもらった豪族がいたことを物語る。

 ヤマト王権以来の中央政権は、古代東北などに住む人々を蝦夷と呼んだ。その意味や語源については諸説あるが、中央政権を中心とする考えによる貶称(へんしょう)、蔑称であることは疑いようがない。

 中央政権は、遠地にある古代東北の地を陸奥(みちのく)ないしは陸奥国(みちのおくのくに)(のちに「むつのくに」)と呼んだ。

 陸奥国が中央政権によって楔(くさび)を打ちこまれたのは、奈良時代の神亀(じんき)元年(724)、多賀城(宮城県多賀城市)が築かれたときと考えていいだろう。

 平城京の朝廷は律令で統治する拠点として、多賀城に陸奥国府(むつこくふ)を置き、朝廷軍を統括する鎮守府も併置したのである。

 蝦夷のうち朝廷側に帰順した豪族は、俘囚(ふしゅう)とか夷俘(いふ)などと呼ばれた。朝廷軍は蝦夷を説得したり武力で屈服させたりする政略をとりながら拡張を進めた。

 天平(てんぴょう)21年(749)、陸奥守(むつのかみ)(陸奥国司の役職)の百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)は、小田郡涌谷(わくや)(宮城県遠田郡(とおだぐん)涌谷町)で産出した黄金900両を朝廷に貢進(こうしん)した。それまで日本では金は産出しないと考えられ、唐などからの輸入に頼っていた。

 東大寺の大仏鋳造を進めていた聖武(しょうむ)天皇はたいそう喜び、その年の四月に天平感宝(かんぽう)と改元した(七月に娘〈女帝の孝謙(こうけん)天皇〉に譲位し、天平勝宝(しょうほう)と改元)。

 だが、皮肉にも金産出は陸奥国に紛争を招く火種となった。

多賀城を襲撃し朝廷との戦いが本格化

 陸奥国にも律令制による租税が課せられていた。天平勝宝4年(752)2月、朝廷は多賀郡以北の調(ちょう)(貢物)を麻布、庸(よう)(労役)を金の貢輸とした。産金地には大勢の役夫(えきふ)(人夫)が投入され、産出した金は平城京へと運ばれた。4月には大規模な大仏開眼会(かいがんえ)が執り行われた。

▲アテルイ モレ慰霊碑(奥州市水沢)アテルイが朝廷軍を撃破した「巣伏の戦い」で陣を構えた羽黒山頂上付近の出羽神社境内にある。碑銘は坂上田村麻呂とゆかりのある京都・清水寺の森清範貫首が揮毫(きごう)した。

 陸奥国府は坂東の兵や役夫、帰順した蝦夷などを動員し、桃生(ものう)城(宮城県石巻市)や雄勝(おかち)城(出羽国(でわのくに)・秋田県雄物川流域)など各地に城柵を築いては、諸国の浮浪人、謀反の罪で賤民(せんみん)とされた奴婢(ぬひ)(最下層の賤民)などを移住させた。

 朝廷に忠実な俘囚は良民(公民)と認め、戸籍に基づき口分田(くぶんでん)を班給(はんきゅう)(分与)し、税を徴収した(班田収授法)。

 ところが、朝廷が貸与する耕地は、蝦夷の先祖伝来の土地である。朝廷の強引なやり方に怒った蝦夷や俘囚は、桃生城に攻め入るなど各地で蜂起した。

 まつろわぬ民の逆襲である。

 宝亀(ほうき)11年(780)3月、蝦夷平定で功をあげていた俘囚の伊治呰麻呂(これはるのあざまろ)(伊治公呰麻呂)が、陸奥守・按察使(あぜち)(監察官)・鎮守府将軍兼任の紀広純(きのひろずみ)に反旗を翻し、伊治(いじ)城(現在の宮城県栗原市)で紀広純らを殺害したうえ、拠点である多賀城を焼き払った。

 この宝亀の乱を機に、古代東北は戦乱の渦に巻きこまれてゆく。

 いつ果てるともしれない戦いのなか、蝦夷の英雄アテルイ(阿弖流為)とその盟友モレ(母礼)、朝廷側の名将として名を馳せる坂上田村麻呂が、歴史の表舞台へと登場してくる。

巣伏の戦いで圧勝しアテルイは蝦夷の英雄に

 蝦夷討伐を国是(こくぜ)としたのは、延暦(えんりゃく)3年(784)長岡京(京都府)へ遷都した桓武(かんむ)天皇である。

 延暦4年(785)、陸奥按察使・征東(せいとう)将軍の大伴家持(おおとものやかもち)が死去した。家持は『万葉集』の編纂にかかわった歌人として名高く、陸奥での産金を詠んだ歌もあるが、官吏、武人としても優れていた。

 延暦8年(789)3月、征東将軍に任ぜられた紀古佐美(きのこさみ)は、約5万3千人もの兵を率いて北進し、胆沢郡の衣川(ころもがわ)(奥州市)を渡って陣を張った。

▲悪路王首像(茨城県鹿嶋市)悪路王は蝦夷の首長・アテルイともいわれ、征夷大将軍・坂上田村麻呂に征伐されたとされている。鹿島神宮に首像と首桶がまつられている。

 陸奥国での一連の出来事は、勅撰(ちょくせん)史書『続日本紀(しょくにほんぎ)』に記されているが、6月3日条に「賊帥夷(ぞくすいえみし)阿弖流為(あてるい)」として、アテルイの名が初めて登場する。

 桓武天皇から蝦夷征伐を急(せ)かされた紀古佐美は、先発の前軍を北上川西岸から巣伏(すぶし)(奥州市の四丑(しうし)橋付近との説が有力)に向かわせ、中・後軍各2千人ずつは渡河した東岸から進軍した。そこへ蝦夷軍300人ばかりが迎え撃ったが、朝廷軍(原文は官軍)の攻勢の前に逃げだした。

 巣伏に近づくと、800人ほどの蝦夷軍が急襲した。こちらは勇猛で強く、朝廷軍は敗走。さらに東の山から400人ばかりが背後をついて挟み撃ちにした。

 混乱に陥った朝廷軍は25人が戦死、矢を射られて245人が負傷、川に逃げて1036人もの将兵が溺死した。

 この巣伏の戦いで智略を駆使したアテルイは、蝦夷の英雄として名を馳せたが、朝廷側には悪名となってとどろいた。

 恨み骨髄に徹した桓武天皇は延暦13年(794)、初の征夷大(たい)将軍となった大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)率いる10万もの征東軍を陸奥国へ送り込んだ。このとき坂上田村麻呂は副将軍として指揮を執った。

▲北上川に架かる四丑橋の南にある巣伏古戦場跡公園(奥州市水沢佐倉河)。この辺りが蝦夷軍と朝廷軍が激戦を繰り広げた巣伏の戦いの跡地だと考えられている。現在は美しい田園風景が広がり、公園に立つやぐらは田んぼアートのビューポイントになっている。
アテルイと田村麻呂 戦いの果てにたどりついた先

 征東軍は大軍に物を言わせ、蝦夷軍を圧倒した。斬首した首級(しるし)は457、捕虜150人、捕獲した馬は85疋(ひき)を数えた。

 勝利の報は、同年10月に平安京へ遷都していた桓武天皇のもとに届けられた。

▲坂上田村麻呂像(宮城県石巻市・零羊崎神社蔵)

 この戦いで戦功をあげた田村麻呂は延暦15年(796)、陸奥出羽按察使兼陸奥守・鎮守(府)将軍を兼ね、翌16年には征夷大将軍に就いた。

 延暦20年(801)には、約4万の将兵を繰りだし、帰順を拒む蝦夷を討伏(とうふく)して京に凱旋。翌21年1月には北進の拠点となる胆沢城(奥州市)に入った。

 4月15日、胆沢城にアテルイと盟友モレが500人を率いて投降した(『日本紀略(きりゃく)』)。すでに胆沢より北には志波(しわ)城(盛岡市)が造成中(翌年に完成)であり、諸国の浪人が数千人単位で陸奥国へ送られている。ここに至ってアテルイは和平の道を選んだ。

 アテルイは田村麻呂の人徳を信頼し、かつお互いに気脈も通じていたのだろう。田村麻呂は、京へ連れ帰ったアテルイとモレの助命を朝廷に嘆願したが、公卿(くぎょう)らはこれを拒否。2人は延暦21年8月13日、河内(かわち)国の杜山(もりやま)において斬首された。

安倍氏と清原氏の興亡
12年にわたる前九年合戦 経清は朝廷に反旗を翻す
▲古代東北合戦図

 アテルイが坂上田村麻呂の軍門に下ってから254年後の天喜(てんぎ)4年(1056)、のちに奥州藤原氏初代となる清衡が生まれた。父は陸奥国司として着任後も現地にとどまった藤原経清(つねきよ)、母は安倍頼良(あべのよりよし)の女(むすめ)(有加一乃末陪(あるかいちのまえ))である。

 安倍氏の出自もまた諸説あるが、朝廷に帰順した有力な俘囚と考えられる。世は、藤原氏が朝廷の実権を握っていた平安中期(王朝国家体制)にあたる。

 安倍氏は在庁官人(ざいちょうかんにん)(地方官僚)の待遇で統治を委任されていた可能性が高い。頼良の代には陸奥国の奥六郡(おくろくぐん)を支配し、最盛期を迎えていた。

 奥六郡とは、『吾妻鏡』に「伊沢(胆沢)・和賀・江刺・稗抜(稗貫)・志和・岩井(岩手)」(カッコは筆者)とあり、現在の岩手県内陸部にあたる。

 前九年合戦は、清衡が生まれる5年前の永承6年(1051)、陸奥守の藤原登任(ふじわらのなりとう)が、貢租(こうそ)を滞納する安倍氏を攻めたことに端を発する。頼良には実子の貞任(さだとう)、宗任(むねとう)、正任(まさとう)ら勇猛な武者が揃そろっていた。玉造郡(たまつくりぐん)鬼切部(おにきりべ)(宮城県)において、安倍氏の軍勢は朝廷軍を圧倒した。

▲安倍館遺跡(盛岡市)平安後期の前九年合戦で滅亡した安倍氏最後の拠点「厨川柵」擬定地の一つ。一族の勢力圏の中では最北端で、源氏と清原氏の連合軍に包囲され、激戦の果てに陥落した。(写真提供/盛岡市教育委員会)

 朝廷は登任を更迭し、武勇の誉れが高い源頼義(みなもとのよりよし)を陸奥守に任じた(2年後に鎮守府将軍兼任)。頼義が多賀国府に入ると頼良は恭順(きょうじゅん)の姿勢をとり、同じ読みを憚(はばか)って頼時(よりとき)と改名した。

 天喜4年、頼義が胆沢城から多賀国府への帰途、阿久利川(あくとかわ)(今日、河川名はないが、栗原市とみられる)で、何者かに襲撃された。藤原光貞(みつさだ)から「貞任の仕業(しわざ)」と讒言(ざんげん)された頼義は頼時に対し、貞任を引き渡すように命じた。頼時はこれを拒んで挙兵。朝廷から頼時追討の宣旨(せんじ)を受けた頼義は、衣川の関へと進軍した。

 このとき経清は、義兄弟の平永衡(たいらのながひら)(妻は頼時の次女・中加一乃末陪(なかかちのまえ))と共に頼義に従っていた。ところが、永衡は安倍氏に内通していると疑われ、誅殺(ちゅうさつ)されてしまった。身の危険を感じた経清は、頼時のもとへと走った。まさにこの前後、清衡は戦乱のさなかに生を受けた。

 翌5年7月、流れ矢を受けた頼時はその傷がもとで死去した。貞任(厨川次郎(くりやがわじろう))は兵の士気を鼓舞し、11月には黄海(きのみ)(一関市藤沢町)の戦いで、頼義・義家(よしいえ)(通称は八幡太郎)父子率いる1800の軍勢を完膚(かんぷ)なきまでに打ちのめした。

 苦戦続きの頼義は、出羽国の清原氏に加勢を要請。康平(こうへい)5年(1062)、大軍を得た朝廷軍は反撃に転じた。

▲「前九年合戦絵詞」(一部、国立歴史民俗博物館蔵・重要文化財)陸奥守源頼義と奥六郡の豪族安倍氏が争った前九年合戦の様子を描いた鎌倉時代の絵巻物。場面は弓の名手として知られた頼義の子義家が白馬にまたがり(写真中央)、馬上の敵将を矢で射抜いたところ。左側には応戦する安倍頼良の子らの姿も見える。
清原氏参戦で形勢が逆転 清衡は生き永らえる
▲平泉町の中尊寺にある東物見から望む「衣川古戦場跡」(奥州市衣川)安倍氏が本拠を構えた際の政庁とされる「衣川柵」があった場所。一族滅亡後は清原氏の居館となった。周囲には関連する史跡が多数残っている。

 清原氏の総大将を務める武則(たけのり)は、1万もの軍勢を率いて頼義に馳せ参じた。国府軍と合わせ1万3千に膨らんだ軍勢は破竹の勢いで安倍氏の支配地を攻略した。

 9月には要衝の衣川関、重要拠点の鳥海柵(とのみのさく)(金ケ崎町)、貞任が治める本拠地の厨川柵(くりやがわのさく)(盛岡市)を攻め落とし、安倍氏を滅亡に追いやった。12年にわたる前九年合戦はここに幕をおろした。

 一族で助命されたのは、貞任の弟宗任、正任ぐらいで、主だった血縁者は処刑されたと言われる。宗任はのちに伊予国、さらに筑前国の宗像(むなかた)(福岡県)に流され、安倍氏の血脈を伝えることになる。

 経清は朝廷に弓を引いた罪人として、残酷な鋸挽(のこぎりび)きの刑で斬殺された。嫡男の清衡も死を覚悟した。だが、武則は貞任の嫡男千代童子丸は禍根を残すとして斬首したものの、清衡は生かした。

 武則の嫡男武貞(たけさだ)は経清の妻を娶ったが、その見返りとして養子にしたのかもしれない。清衡は数え7歳だった。

▲平安の風わたる公園(秋田県横手市)後三年の合戦跡の西沼を中心に整備された歴史公園。源義家が金沢柵に向かう途中、この沼を通った際に飛んでいた雁が突然列を乱したことから伏兵を察知し、難を逃れたという。
骨肉の争いとなった後三年合戦の悲劇

 奥羽の覇者となった清原氏だったが、やがて一族のあいだに亀裂が生まれる。前九年合戦を知る武貞が亡くなると、正妻とのあいだに生まれていた嫡男真衡(さねひら)が家督を継いだ。清衡には、母を同じくする異父兄弟の家衡(いえひら)ができていた。

 永保(えいほう)3年(1083)秋、源義家が陸奥守として多賀国府に着任した。真衡は父の代に世話になった義家に恭順の意を表し、かねてから不仲だった叔父の吉彦秀武(きみこのひでたけ)を討たせてくれるように願いでた。

 許しを得た真衡は吉彦がいる出羽へ出陣した。このすきに吉彦と通じていた清衡と家衡は、真衡の拠点である白鳥舘(しろとりだて)(奥州市前沢)を襲撃した。が、事前に察知して守りを固めていた守備隊に加え、義家が助太刀したことから大敗し、降伏した。

 清衡はついに命運が尽きたと思ったが、思いがけなく出羽へ向かった真衡が急死してしまった。裁定を任された義家は、清衡と家衡に対し、奥六郡を分与した。

 応徳(おうとく)3年(1086)、裁定に不満だった家衡は清衡の館を急襲し、妻子を含む一族を惨殺した。絶体絶命のなか、この窮地から清衡だけが逃げ延び、義家に助けを求めた。これにより清衡は、家衡、さらに家衡についた武貞の弟武衡(たけひら)を相手に、いやおうなしに戦うことになった。

 寛治(かんじ)元年(1087)、清衡と義家は、難攻不落の金沢柵(かねざわのさく)(秋田県横手市)に家族ともども立てこもった家衡、武衡の軍勢を包囲し、攻め立てた。だが、落ちない。攻めあぐねた清衡と義家は、味方についていた吉彦の提案で兵糧攻めにした。

 飢餓に陥った家衡、武衡は11月、柵に火を放って逃亡をはかったが、二人とも討ち取られた。骨肉の争いとなった後三年合戦もまた、悲劇的な結末を迎えた。

▲「後三年合戦絵詞」(一部、東京国立博物館蔵・重要文化財)出羽の豪族清原氏と陸奥守源義家・清原(藤原)清衡との間で戦われた後三年合戦の様子を描いた鎌倉時代の絵巻物。場面は、義家が金沢柵へ向け行軍中の様子を描いたもので、空を飛ぶ雁の列の乱れから敵の伏兵に気付いた義家が、矢を射かけようとしている。
この世の地獄を見た清衡は仏教に帰依する

 後三年合戦のあと、清衡は清原ではなく、実父経清の姓である藤原を名乗ることにした。奥州藤原氏の始まりである。

 朝廷は、今回の合戦は清原氏の内紛であり、義家の参戦は私闘とみなした。さらに義家は黄金の貢納を滞(とどこお)らせたうえ官費を戦費や兵糧などに横流ししたなどとして、陸奥守を解任されてしまった。

 前九年・後三年合戦で九死に一生を得た清衡は、妻子を含む多くの人々の悲惨な最期を見てきた。戦場は血で血を洗う、まさにこの世の地獄だった。

 どうしたら戦乱のない世をつくることができるだろうか。思い悩んだ清衡は仏教に帰依し、やがて平泉の地に浄土思想に基づく仏国土をつくろうと決意する。

平泉の黄金文化
「供養願文」に込められた清衡の高邁な平和理念

 清衡は清原氏に代わり、32歳で奥羽の覇者となった。清衡は貢納を欠かさず朝廷との良好な関係を保ったうえで、金山開発や交易に力を入れて財力を蓄え、陸奥国を縦断する奥大道(おくのたいどう)を整え、京都から僧や知識人、優れた職人などを招き入れた。

▲中尊寺【世界遺産】金色堂新覆堂(平泉町)奥州藤原氏の初代清衡が浄土世界の精神的な中核として最初に造営した寺院。最盛期に堂塔40、僧坊300に及んだとされる境内には12世紀の阿弥陀堂建築の最高傑作とされる国宝・金色堂をはじめ、貴重な文化財が数多く残る。

 やがて、国家鎮護のために平泉に寺院を建立する許しをもらった清衡は、いよいよ仏国土づくりに邁進(まいしん)した。

 金色堂が完成した2年後の大治(だいじ)元年(1126)、清衡が71歳のとき、主要な堂宇伽藍(どううがらん)ができあがったことを祝し、壮大な中尊寺落慶供養(らっけいくよう)が挙行された。

 このとき清衡が読みあげた「落慶供養願文(がんもん)」には、「官軍や蝦夷を問わず、また人だけでなく獣や鳥など犠牲になったすべての霊を慰め、極楽浄土に導きたい」と記されている。ユネスコ憲章の前文にも通じる高邁な平和理念は、時を超えて普遍的な価値を持つ。

▲中尊寺【世界遺産】金色堂内陣(平泉町)
column 世界遺産の追加登録を目指す文化遺産
▲骨寺村荘園遺跡(一関市)

 2011年6月、平泉の文化遺産が「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の名称でユネスコの世界遺産に登録された。くしくも東日本大震災から3カ月後、打ちひしがれた人々に光明を与え、安寧(あんねい)を願った祈りの心を今も世界へ向けて発信している。

 現在、関係者の努力で柳之御所(やなぎのごしょ)遺跡、達谷窟(たっこくのいわや)、骨寺村荘園(ほねでらむらしょうえん)遺跡と農村景観、白鳥舘遺跡、長者ヶ原廃寺(ちょうじゃがはらはいじ)跡の追加登録へ向けた活動が続けられている。

地域の記事をもっと読む

県内外
2019年9月17日付
県内外
2019年9月17日付
県内外
2019年9月17日付
県内外
2019年9月17日付
県内外
2019年9月16日付