一関・平泉

岩手大陸2020【特集】平泉を詠む 文・松田十刻

中尊寺月見坂

 みちのくの小京都とも称される古都・平泉。古くから、多くの文人墨客がこの地を訪れ、作品を残している。なかでも、平安時代の歌人・西行、江戸時代の俳聖・松尾芭蕉は、ことに有名。平泉には、宮沢賢治、山口青邨(せいそん)ら文人たちの文学碑が点在しており、往時に思いを馳せ、それらを訪ね歩く文学散歩も楽しめる。

【いわにちコレクションで紙面版「岩手大陸2020」全ページをご覧いただけます】


文 松田十刻(まつだじゅっこく)

プロフィール/本名 髙橋文彦 昭和30年(1955)、岩手県盛岡市生まれ。立教大学文学部卒業後、盛岡タイムス、岩手日日新聞社の記者、フリーランスなどを経て文筆業に就く。第2回新潮ミステリー倶楽部賞(1997年)で「チャップリン謀殺指令」が最終候補に。同作品が出版されるに際し、作家の島田荘司氏より、松田十刻のペンネームを授かる。『新人類』『ダッハウへの道』『ダビデの星』『遥かなるカマイシ』『龍馬のピストル』『沖田総司』『清心尼』『26年2か月 啄木の生涯』『ネヴァ河のほとり 魂のイコン 山下りん』『颯爽と清廉に 原敬』『海軍一軍人の生涯 米内光政』『山口多聞』『提督斎藤實「二・二六」に死す』など、ミステリー、歴史・時代小説、戦記、評伝小説など多彩なジャンルで作品を発表している。

西行、松尾芭蕉、宮沢賢治

 奥州藤原氏が築いた仏都・平泉は、多くの文人墨客(ぼっかく)を魅了してきた。

 なかでも、平安時代末期、全盛期の平泉を2度訪れた歌人の西行(さいぎょう)(1118~90年)、江戸時代前期、西行を慕って、みちのくを行脚(あんぎゃ)した俳諧師の松尾芭蕉(まつおばしょう)(1644~94年)は、平泉を詠んだ文人として双璧を成す。

 西行の代表的な歌(和歌)「きゝもせず/束稲やまのさくら花/よし野のほかにかゝるべしとは」の歌碑は、中尊寺本堂などへ向かう参道「月見坂」の東物見台と、地蔵堂の境けいだい内にある(表記は異なる)。

 芭蕉の句碑「夏草や/兵(つわもの)どもが/夢の跡」は、毛越寺南大門跡と、高館義経堂の近くにある。前者は宝暦(ほうりゃく)7年(1757)、後者は『奥の細道』(『おくのほそ道』)300年を記念した平泉芭蕉祭の記念句碑「夏草碑」として、平成元年(1989)に建立(こんりゅう)された。

 金色堂の脇にある句碑「五月雨の/降残してや/光堂」は、延享(えんきょう)3年(1746)、芭蕉の死から52年後に建立されたものである。金色堂旧覆堂(おおいどう)の傍らには、柔和な表情をした芭蕉の像があり、訪れた人々を漂泊(ひょうはく)の旅へと誘(いざな)ってくれる。

 特筆すべきは、藤原氏四代が眠る金色堂前にある宮沢賢治(1896~1933年)の詩碑「中尊寺」(文語詩)。実は、昭和34年(1959)5月10日、金色堂建立850年記念宮沢賢治祭・詩碑除幕式が挙行されたのち、賢治の金色堂合祀(ごうし)・追福法要が営まれた。中尊寺にとって、賢治がいかに特別な存在であるかがわかる。

 旧制盛岡中学(現・岩手県立盛岡第一高等学校)で賢治の先輩にあたる石川啄木(1886~1912年)も、有志による修学旅行の途中、中尊寺を参観している。平泉には、文人にまつわる文学碑が多く点在する。それらの碑を巡り、先人を偲ぶ歴史・文学散歩をするのもいい。


※今回の特集でとりあげた歌(和歌)、俳句の口語訳・意訳は、すべて松田十刻氏の独自の解釈によるものです(編集部)。

生涯2度、陸奥への旅 西行
能因の歌枕を訪ねて
 平安時代末期に生きた歌僧西行(法師・上人(しょうにん))は、生涯に2度、奥州とも呼ばれる陸奥(みちのく)(むつ)へ出立し、どちらの旅でも仏都・平泉を訪れている。
▲平安末期の歌僧・西行。元永元年(1118)~文治6年2月16日(1190年3月31日)。六家集のひとつ『山家集』、勅撰集など約2300首の歌が伝わる(MOA美術館蔵)

 西行が生まれたのは、元永(げんえい)元年(1118)。最初に訪れたのは、数え27歳の天養(てんよう)元年(1144)ごろ、30歳の久安(きゅうあん)3年(1147)ごろなど諸説ある。いずれにしても20代後半から30歳までのあいだと考えられている。

 2度目は、晩年の文治(ぶんじ)2年(1186)、69歳のときだった。この旅には、平氏に焼き討ちされた東大寺再建のための砂金勧請(かんじょう)という確たる目的があった。

 若き日の西行が陸奥に憧憬(しょうけい)の念を抱いたのは、平安時代中期の歌僧能因(のういん)法師(988~没年未詳)の旅路に触発されたためと言われる。

 つまり、歌に詠まれた名所旧跡を意味する「歌枕」をたどる旅をしながら、能因を追慕しようとしたのである。

 西行は、陸奥へと至る東山道の白河の関を訪れると、かつて能因が詠んだ「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」を念頭に置いて、「白河の関屋を月のもる影は人の心を留むるなりけり」と詠じている(表記は文献により異なる)。

 ただし、鎌倉時代に編纂(へんさん)された世俗説話集『古今著聞集』によれば、能因は旅にでたように見せかけただけで、実際には陸奥の地を踏んだことはないという。

とりわきて
心も凍(し)みて
冴えぞわたる
衣河見にきたる
今日しも

[口語訳] 衣河を見にきた今日は、とりわけ心まで凍(こご)えるような寒さで、空気も冴えわたっている

吹雪のなか、あえて衣河(衣川)の古戦場を見にやってきたが、川だけでなく心まで凍えるほど寒く、ある種の感慨を覚え、頭まで冴えわたっている。

▲「とりわきて―」の歌は、若き日の旅を思い返して詠んだと思われるが、晩年の旅に重ね、この世の無常を詠んだようにもとれる
北面の武士、佐藤義清

 平泉をめざしたのは、奥州藤原氏に対する格別な思いがあったためと言われる。

 出家前の西行は、佐藤義清(のりきよ)という武士だった。佐藤家の家系をたどると、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の孫の一人・房前(ふささき)を祖とする藤原氏北家までさかのぼる。

▲奥州藤原氏二代基衡(江戸時代に描かれた肖像画。白王院蔵)

 その系統の一つから、平将門(たいらのまさかど)の乱を平定し、百足(むかで)退治伝説で有名な藤原秀郷(ふじわらのひでさと)(俵藤太(たわらのとうた))が出ている。

 一説によれば、秀郷の子の千晴の子孫が奥州藤原氏に、もう一人の子千常の子孫が佐藤氏につながり、義清は秀郷の嫡流(ちゃくりゅう)9代にあたる。

 義清は、院御所の北面(部屋)に詰め、上皇(当時は鳥羽(とば)上皇)の身辺警備などを務める北面(ほくめん)の武士で、のちに平家の栄華を極める平清盛(たいらのきよもり)と同僚だった。

 西行は、奥州藤原氏とは同族にあたることから、平泉、さらには安倍氏と朝廷軍が戦った前九年合戦の古戦場を見たいとの思いにかられたことは想像に難くない。

 実際、衣川(ころもがわ)(現・奥州市衣川)を訪れた西行は、「とりわきて心も凍(し)みて冴(さ)えぞわたる衣河見にきたる今日しも」と詠んでいる。この一首は歌集『山家集(さんかしゅう)』(編者・成立年未詳)に収められたものだが、ほかの歌同様に文献によって表記はまちまちである。ここでは、国民宿舎サンホテル衣川荘に隣接した「懐徳館」(閉館中)前にある歌碑に依拠した(同所に、衣川を詠んだ別の歌碑がもう1基ある)。

 歌を詠んだときの背景などを表す詞書(ことばがき)には、「十月十二日、平泉にまかりつきたりけるに、雪ふり嵐はげしく、ことの外に荒れたりけり。いつしか衣川見まほしくてまかりむかひて見けり。河の岸につきて、衣川の城しまはしたる、ことがらやうかはりて、ものを見るここちしけり。汀(みぎわ)氷りてとりわけさびしければ」(『山家集』佐佐木信綱校訂・岩波文庫)とある。旧暦10月中旬は、新暦では12月初旬にあたる。

 西行が最初に訪れたとき、奥州藤原氏は二代基衡(もとひら)の治世だった。大伽藍や庭園を伴う毛越寺(もうつうじ)、妻による観自在王院(かんじざいおういん)の造成が始まるのは、久安(きゅうあん)6年(1150)ごろからである。基衡との対面の様子などは、伝わっていない。

▲毛越寺は、中尊寺と同じ嘉祥3年(850)、慈覚大師(円仁)の創建と伝わる。二代基衡が堂塔や浄土庭園(大泉が池など)の造営に着手、三代秀衡のときに完成した
西行の出家と恋歌
▲待賢門院璋子(1101~1145年)。康治元年(1142)、自ら再興した法金剛院で落飾(貴人の出家)し、晩年は異母兄の三条実行(さねゆき)の邸宅で暮らした。西行は璋子の御所があった法金剛院を訪れている(法金剛院蔵)

 佐藤義清は朝廷で一目置かれていたが、保延(ほうえん)6年(1140)に出家し、法号を円位と名乗り、のちに西行と改めた。

 出家を記した同時代の文献に、のちに保元(ほうげん)の乱の首謀者の一人として敗死する藤原頼長(ふじわらのよりなが)の日記『台記(たいき)』がある。

 日記には「義清は重代の勇士として法皇に仕えたが、俗時より心を仏道に入れ、遂(つい)に遁世する。人、これを嘆美する」などと記されている。

 若くして内大臣や左大臣などを歴任した頼長は、西行が平泉を訪れたあと、関白に相応する内覧(ないらん)に就き、基衡に貢賦(こうふ)(貢物と賦税)の増加を求めるなど、奥州藤原氏を牽制(けんせい)、折衝した人物でもある。

 出家の理由は諸説あるが、西行は後世に伝説化され、不明な点も多い。鎌倉中期以降、多くの異本が生まれた『西行物語』では、伝記のため創作的な逸話が織りこまれている。妻子を捨てて出家する際、娘を蹴ったという話もそのひとつである。

 最も有力な説は、親戚で親友の佐藤憲康(のりやす)の突然の死に、この世の無常を感じたためと言われる。

 失恋説もある。相手は、鳥羽院の后(きさき)で崇徳(すとく)、後白河(ごしらかわ)両天皇の母となる待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)(「たまこ」とも)である。

「尋ぬとも風のつてにもきかじかし花と散りにし君が行方を」(『山家集』岩波文庫)

 これは、璋子の死を悼んで詠んだと言われる。かなわぬ恋が出家の理由だとしたら、それはそれでドラマチックである。

尋ぬとも
風のつてにも
きかじかし花と散りにし
君が行方を

[口語訳] 尋ねてみても、風の便りにも聞くことはできない。花のように散ってしまった君の行方を

桜が風に舞い散って、忘れ得ぬ面影を思い出す。いったい、あの方は亡くなったあと、どこへ行ってしまったのだろう。

▲待賢門院璋子が45歳で崩御したとき、西行は28歳。この歌は、璋子に仕えた歌人、待賢門院堀河に申し送ったもの。堀河の返歌は「吹く風の行方しらするものならば花とちるにもおくれざらまし」
69歳、晩年再び陸奥へと旅立つ
▲『西行物語』では、西行が三代秀衡と対面したという。ただし、史実としては伝わっていない(白王院蔵)

 諸国を巡っていた西行は文治2年(1186)、伊勢国二見浦を離れ、再び陸奥へと出立した。数え69歳。西行にとっても死を覚悟しての長旅である。

 目的は、平重衡(たいらのしげひら)(平清盛の五男)が焼き討ちした東大寺再建のため、奥州藤原氏三代秀衡(ひでひら)に砂金を勧請することにあった。きっかけは、寺院建立をとりしきる大勧進職(だいかんじんしき)の重源(ちょうげん)上人から依願されたためという説が有力である。西行と重源は熊野や高野山で交誼(こうぎ)を結んだとみられる。

▲和歌山県紀の川市窪にある西行法師像。西行は同市竹房出身との説もある(写真提供紀の川市観光振興課)

 8月15日、西行は鎌倉の鶴岡八幡宮において、参詣した源頼朝(みなもとのよりとも)と出会い、その夜、御所に招かれて歌道や弓馬について夜通し語った。翌16日、頼朝はひきとめたが、西行は固辞。頼朝はお礼に銀製の猫を贈ったが、西行は門を出るなり、遊んでいた子どもにくれてしまった。

 これは、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡(あづまかがみ)』に記された逸話である。西行と秀衡が一族であることも明記されている。

 前年3月、頼朝は弟義経の活躍で、平家を壇ノ浦で滅ぼしたが、義経が無断で後白河院から任官を受けたことに激怒し、鎌倉入りを許さず、ついには義経追討の令を全国に発していた。

 このような情勢のなか、朝廷と縁が深い西行は、頼朝に疑念を抱かれる立場にありながら、あえて平泉へ向かった。

▲晩年の西行が平泉を訪れたとき、奥州藤原氏は全盛期を迎えていた。写真は無量光院跡
平泉の栄耀と終焉を見届けて

 鎌倉を離れた西行は、文治2年(1186)のうちに平泉を再訪した。最初の訪問から40年ほどの歳月が流れている。

 平泉は中尊寺に加え、毛越寺、観自在王院、秀衡が造営した無量光院など多くの堂塔、禅房が林立する仏都として栄耀(えいよう)栄華を極めており、西行も目を見張った。『西行物語』によると、西行は和歌に通じた秀衡に歓迎され、和歌や先祖の藤原秀郷の話などで盛りあがったという。

 ちなみに、西行が歌人として名声を博すのは晩年になってからである。2年後に完成する『千せんざい載和歌集』で18首入にっしゅう集を果たすが、歌数では9番目。『新古今和歌集』では94首と最も多く選ばれているが、編へんさん纂されたのは、『西行物語』などと同様に、西行の没後である。

 平泉を詠んだ歌で最も知られるのは、

「きゝもせず/束稲やまのさくら花/よし野のほかにかゝるべしとは」(表記は、月見坂・東物見台の歌碑)。

 その詞書(ことばがき)には、「みちのくに(陸奥(みち)の国)に、平泉にむかひて、たはしね(束稲)と申す山の侍(はべ)るに、こと木(異木)は少なきやうに、桜のかぎり見えて、花の咲きたりけるを見てよめる」(『山家集』岩波文庫・カッコは筆者)とある。

▲月見坂・東物見台にある歌碑。昭和35年(1960)に建立された

 西行の平泉・衣川での滞在期間はわかっていない。最初の旅では、冬から翌春にかけて留まったとの説もある。『西行物語』では、秀衡に「四、五年いるように」と告げられたが、西行は修行にならないと思い、その年の秋には平泉を去ったという。

 ところで、『吾妻鏡』の文治3年2月10日には、義経主従が平泉にいることをつきとめた旨が記述されている。義経がそれ以前に平泉入りしていたとすれば、西行と対面していた可能性もなくはない。

 平泉は同年10月に秀衡が死去したことで暗転し、西行再訪から3年後の文治5年、頼朝に滅ぼされる。奥州藤原氏の終焉(しゅうえん)を知った西行は、改めて争いの愚かさ、この世の無常を嘆いたことだろう。

 西行は文治6年(建久元年)2月16日(新暦3月末)、弘川寺(ひろかわでら)(現・大阪府南河内郡河南町)で生涯を終えた。享年73。晩年に詠んだ「ねがはくは花の下にて春死なんそのきさらぎのもち月の頃」(『山家集』岩波文庫)のように、月や春を好んだ西行にふさわしい死出の旅だった。

きゝもせず
束稲やまの
さくら花
よし野のほかに
かゝるべしとは

[口語訳] 聞いたこともない束稲山の桜。吉野のほかにこのようなところがあろうとは

これまで聞いたことがなかっただけに、吉野の桜にまさるとも劣らない束稲山の桜を見て、それがあまりに壮観であり、驚嘆した(平泉の栄華を象徴的に表した、とも考えられる)。

▲西行が詠んだ束稲山。『吾妻鏡』によれば、安倍頼時(あべの・よりとき、清衡の母方祖父)が、桜1万本を植えたという。西行は、吉野山(奈良県)に草庵を結んだことがある
西行を崇敬した 松尾芭蕉
西行500回忌の年に みちのくへ旅立つ
▲高館から見た束稲山と北上川。松尾芭蕉が記した風景が今も残る場所として「おくのほそ道の風景地」の一つにも選定されている

 俳聖と崇められ、世界的にも名を知られる俳諧師、松尾芭蕉(まつおばしょう)(1644~94年)の代表的な紀行文といえば、奥州、北陸道をめぐった『おくのほそ道』(今は『奥の細道』よりも一般的な表記)である。

▲芭蕉の門人・森川許六が描いた「奥の細道行脚之図」の芭蕉と曾良(天理大学附属天理図書館蔵)

 芭蕉は、旅を愛した歌人西行を崇敬していた。太平の世となった江戸時代前期には『西行物語』の異本が多く流布(るふ)するなど、西行の歌だけでなく、その生き方なども、もてはやされていた。芭蕉もまた、西行に感化された一人だった。

 俳諧宗匠(そうしょう)として江戸・日本橋に居を構えていた芭蕉は、数え37歳のとき、庶民が暮らす深川に住まいを移した。

 41歳には、伊賀、大和、吉野、美濃、尾張などをめぐる旅にでた。この旅はのちに『野ざらし紀行』としてまとめられる。これをきっかけに芭蕉は、ひんぱんに旅をくりかえすようになる。

 だが、西行が訪れた陸奥は、未知の世界である。陸奥は、平安時代から和歌に詠まれた歌枕(名所)の宝庫でもある。いつかは西行のように、陸奥を行脚(あんぎゃ)しながら俳句を詠みたい。

 そう願っていた芭蕉は、西行500回忌にあたる元禄(げんろく)2年(1689)こそ、旅立ちにふさわしいと思った。芭蕉46歳のときである。

 3月27日(新暦5月16日)、芭蕉は隅田川のほとりにあった草庵(そうあん)(芭蕉庵)を引き払い、門弟の河合曾良(かわいそら)(1649~1710年)を伴い、生涯で最も長い5カ月に及ぶ旅へ出立した。

 この時点で芭蕉は知るよしもないが、5年後に世を去る。『おくのほそ道』の題を自筆、清書を託した同著が刊行されるのは、芭蕉の死から8年後のことである。

義経主従の最期の地 高館で感慨に耽る
▲中尊寺・金色堂旧覆堂のそばに立つ松尾芭蕉像

 江戸を発った松尾芭蕉と河合曾良は、日光東照宮、黒羽(くろばね)(現・栃木県大田原市)などの名所旧跡をめぐり、句を詠んだ。 陸奥の玄関口、白河に着いたのは4月20日。奥州街道を北上し、須賀川(すかがわ)、松島、石巻などを経て5月13日(新暦6月29日)、平泉にたどり着いた。

 『義経記(ぎけいき)』などを愛読していた芭蕉は、まっさきに義経主従最期(さいご)の地へ向かい、感慨に耽(ふけ)った。『おくのほそ道』では、次のような名文で綴られている(現代かな遣いに改めた)。

 「三代の栄耀一睡の中(うち)にして、大門の跡は一里こなたに有り。秀衡が跡は田野(でんや)に成(なり)て、金鶏山(きんけいざん)のみ形を残す。

 先(まず)高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河也(なり)。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下(もと)にて大河に落入(おちいる)。(中略)義臣(ぎしん)すぐって此城(このしろ)にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。国破れて山河あり、城春にして草青(くさあお)みたりと、笠打敷(かさうちしき)て、時のうつるまで涙を落(おと)し侍(はべ)りぬ。

 夏草や兵どもが夢の跡」

▲松尾芭蕉句碑(毛越寺)夏草や兵どもが夢の跡

 金色堂(国宝)、経蔵(重文)を訪れ、

 「兼(かね)て耳驚(みみおどろか)したる二堂開帳(かいちょう)す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺(ひつぎ)を納め、三尊の仏を安置す。七宝(しっぽう)散(ちり)うせて、珠(たま)の扉風にやぶれ、金(こがね)の柱霜雪(そうせつ)に朽(くち)て、既(すでに)頽廃空虚の叢と成(なる)べきを、四面新たに囲(かこみ)て、甍覆(いらかおおい)て風雨を凌(しのぎ)、暫時千歳(しばらくせんざい)の記念(かたみ)とはなれり。

 五月雨(さみだれ)の降(ふり)残してや光堂」

 と綴り、名句を残した。

夏草や兵どもが夢の跡

ぼうぼうと茂った夏草を眺めていると、かつて平泉で栄華を誇った奥州藤原氏も、英雄として活躍した義経主従らも、一睡の夢のようにはかないものに感じてしまう。

栄枯盛衰の物語を普遍的なテーマとして詠む

 金色堂は、初代清衡(きよひら)により、天治(てんじ)元年(1124)に上棟された。芭蕉は565年後に訪れたことになる。

 金色堂を保護してきた覆堂(鞘堂(さやどう))は、鎌倉幕府によって延応(えんおう)元年(1288)に建てられたと伝わる。その後、何度か増改築され、「昭和の大修理」と呼ばれる金色堂解体修理(1962~68年)期間中、鉄筋コンクリートの新覆堂が完成したのに伴い、旧覆堂(重文)として現在地に移築された。建物自体は、室町時代中頃のものと推定されている。

 経蔵(経堂)は、清衡の代に創建されたときには2階瓦葺屋根だったが、建武(けんむ)4年(1337)の火災で上層部を焼失。その後、平安時代の古材の一部を利用し、平屋として再建されたと考えられる。

 曾良は『曾良旅日記』(重文)を残しているが、このうち『元禄二年日記』(奥の細道随行日記)に旅の日程などが克明に記されている。実は芭蕉は仙台(伊達)藩領の松島や平泉では作句(さっく)していない。

 経蔵は「別当が留守にて不開」のため参観できなかった。それゆえ、ありもしない「三将の像」と表現してしまった。

 ちなみに前日までは雨にたたられたが、平泉では好天に恵まれた。「五月雨―」の句は晩年、芭蕉が何度も推敲(すいこう)したうえ、最終稿で完成したという。

 芭蕉は、栄枯盛衰を脚色して物語るだけでなく、古今東西、いずれの世にも通じる普遍的なテーマとして、平泉への思いを詠んだのだろう。それゆえ、これらの句は古びることなく、今も胸を打つ。

五月雨の
降り残してや
光堂

何百年もくり返された五月雨も、この光堂だけは降り残され(覆堂のおかげで風雨にさらされなかったため)、朽ち果てることなく、往時の輝きを留めている。

▲金色堂を保護するために建てられた覆堂(鞘堂)。この建物は、室町時代中期のものとみられる。芭蕉は、この覆堂の中の金色堂を拝観した
平泉の黄金文化
世界遺産・平泉文化の神髄
中尊寺【世界遺産】 奥州藤原氏の初代清衡が浄土世界の精神的な中核として最初に造営した寺院。全盛期には40もの堂塔があったといわれる。国宝である金色堂は螺鈿細工や漆の蒔絵、精緻な彫金などで装飾された12世紀の阿弥陀堂建築の最高傑作。(写真は金色堂内陣)

 2011年6月、東日本大震災から3カ月後、平泉の文化遺産〈仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群〉が、ユネスコの世界遺産に登録された。

 具体的には、中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山の5資産だが、今後さらなる追加登録をめざしている。これらの文化遺産は、その価値を知る先人たちによって守られてきた。

 たとえば、世界屈指の黄金文化を今に伝える中尊寺の金色堂は、奥州藤原氏の滅亡後も中世、江戸時代、明治、昭和と何度も修理が施されてきた(2020年6月~12月まで一般公開しながら保存修理工事中)。

 これら黄金文化の一端は、讃衡蔵(さんこうぞう)(宝物館)で見ることができる。このうち初代清衡が中尊寺落慶供養(らっけいくよう)で読みあげた『落慶供養願文(がんもん)』には、高邁(こうまい)な平和理念が謳(うた)われている。この理念こそ平泉文化を表す神髄であり、今なお輝きを放つ。

義経の足跡
芭蕉もここで思いを馳せた
悲運の武将ゆかりの地を巡る
高館義経堂 義経の居館があり、終焉の地になったと伝えられる場所。官位にちなんで「判官館」とも呼ばれる。お堂は江戸時代の建立で、堂内に義経の木像が安置されている。

 多くの伝説に彩られ、松尾芭蕉も憧れた源義経。義経が青春時代を過ごし、悲劇の最期を遂げた平泉で、義経ゆかりのスポットを巡ることができる。

 世界遺産・無量光院跡の北にある「高館義経堂」は、頼朝に追われた義経が、平泉に逃れた後に住んでいた場所。平泉で秀衡の手厚いもてなしを受けた義経だったが、秀衡が亡くなると泰衡の急襲を受けて妻子とともに自害。高館は歴史の舞台を駆け抜けた義経の終焉の地となった。丘陵地の高館は当時の要害地で、北上川と束稲山を望む眺望は平泉随一。高館の頂上には仙台藩主4代綱村が建立した義経堂があり、風情のある眺めとともに義経に思いを馳せることができる。

 義経の忠臣として最後まで奮戦した弁慶。世界遺産・中尊寺の月見坂入り口に弁慶の墓と伝わる場所がある。月見坂沿いには「弁慶堂」と呼ばれるお堂もあり、堂内には「立ち往生」を再現した弁慶の木像を安置。世界遺産・金鶏山の入り口近くには「源義経公妻子の墓」がひっそりとたたずんでいる。

弁慶堂 中尊寺参道の月見坂沿いに立つお堂の一つで、本尊は勝軍地蔵。古くは愛宕堂と呼ばれていた。堂内には弁慶の等身大木像、隣に義経の木像が安置されている。

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