県内外

末永く愛される地域へ 市民と共にまちづくり 大船渡市

復興が進んだ大船渡駅周辺地区。商業施設(中央)、ファクトリーショップ(左)、ホテル(右)、芝生広場(手前)などが整備された
東日本大震災から10年 海の町と山の町

 東日本大震災の大津波で、壊滅的な被害を受けた本県沿岸部の各市町村。地元住民や自治体、関係者は10年の歳月をかけ復旧・復興に力を尽くしてきた。

 大船渡市も、漁港に近い中心部の大船渡駅周辺地区が大打撃を被った。震災後、土地区画整理が進み商業地、防災交流施設、公園が整備され、街並みが震災前とは一変。市内外の人々がさまざまな目的で集う交流の場に生まれ変わった。

 官民連携でエリアマネジメントを進めようと、まちづくり会社「キャッセン大船渡」が設立。同社が推進主体となり一帯のエリアには商店街やスーパー、フードヴィレッジ、ファクトリーショップ(かもめテラス)、ホテル、ワイナリーなどが集積した。

 付近には、3階建てのおおふなぽーと(市防災観光交流センター)が開館。平常時は市民活動や観光交流、防災を学ぶ場として活用する一方、展望デッキ、屋上広場は災害時に逃げ遅れた際の緊急避難場所となる。海の近くに夢海(ゆめみ)公園も整備され、遊具や桜並木、芝生広場、災害遺構がそろう。震災の記憶を未来に受け継ぎ、人々が楽しめる施設となった。

 市の担当者は「今の住民も豊かになり20年後、30年後にも受け入れられるものでなければならない」と強調。商業施設集積へまちづくり会社と幾度も協議し、公園などは幅広い世代の市民が参加するワークショップで意見を採り入れ、市民と共に大船渡駅周辺エリアを造り上げた。

 仮設住宅は、2020年1月に全てが撤去された。災害公営住宅は25団地が整備され、防災集団移転促進事業の造成工事は21地区全て完了。目玉の大船渡駅前をはじめ、同市の復興計画で予定していた事業はほぼ終えた。

 震災直後の11年度から10年に及んだ復興計画は、今年度で一区切りとなる。一方、いまだ未定の被災跡地の利活用、被災者の心のケア、新たな復興住宅等でのコミュニティ形成などの課題も残されている。

 大船渡津波伝承館館長で「語り部」として災害の教訓を伝えている齊藤賢治さん(73)は「外見上、目に見えた復興はなされたと思う。ただ(震災前と比べ)人口は減っている。心の病を持った方々、精神的ダメージを負った方々はどうなのか」と懸念する。市は、21年度から10年間の次期市総合計画で引き続き、残された復興関連の課題に対応していく。

大船渡市の被災状況 死者340人、行方不明者79人。建物被害は5592(全壊2791、大規模半壊430、半壊717、一部損壊1654)世帯で、物的被害額は判明分だけで1077億円に上る。(2020年9月末現在)

故郷を見守り応援したい

 わが故郷・大船渡市など沿岸部を中心に壊滅的被害をもたらした東日本大震災から10年。故郷の街並みはすっかり変わり、復興が着実に進んだと実感する。

▲震災発生翌日の記者の実家付近。大船渡港から2キロ離れているが、家屋などがなぎ倒されがれきの山と化した=2011年3月12日、大船渡市盛町

 津波は大船渡港から約2キロ離れた同市盛町の実家も襲った。幸い家族は無事だったが、1階は天井まで浸水。母も一歩間違えれば危うかった。一関市に住んでいた私は翌日、現地入りしたが実家付近はがれきの山。信じられない光景が広がっていた。避難所で家族の無事を確認し胸をなで下ろしたが、「母を見捨ててしまった」と嘆いていた男性の声が今も脳裏から離れない。家族や大切な人を亡くされた方々の悲しみは、10年たった今も察するに余りある。

 震災の半年前に他界した父は、中学生の時に1960年のチリ地震津波を経験。私も幼少から「津波が来たら何も持たずに逃げろ」と言われていた。ただ、チリ地震当時父が住んでいたのは大船渡港すぐ近く。実家にまで津波が及ぶとは想像だにしなかった。実家には高校時代まで住んでいたが、恥ずかしながら逃げた記憶はない。私も家族も「チリ地震の際はここまで津波が来なかった」と完全にすり込まれていた。海のない内陸部では津波がなくても川の氾濫、洪水はある。「災害はその都度顔が違う」ことを改めて肝に銘じ、日頃からの備えが必要と改めて感じ入っている。

▲現在の実家付近。被災家屋や道路なども復旧したが、建物が撤去され更地になった土地(手前)も=21年1月18日

 実家は震災から2年後に改修を終え、家族は戻ったが、近隣では他へ引っ越した住民も多くコミュニティは再編された。JR大船渡線は鉄路からバス高速輸送システム(BRT)となり、実家近くに新駅もできた。かつて祖父母が住んでいた大船渡駅周辺は商業施設や公園などが整備され、見違えるようなエリアに進化。母校の小学校の仮設住宅は撤去され、実家付近には災害公営住宅ができた。10年の歳月で、復旧ではなく「復興」へ歩んできたと肌で感じる。

 それも多くの方々の努力のたまもの。復興へ心血を注いできた方々に心から敬意を表したい。私は職場も住まいも内陸にあるが、今後も故郷を見守り何らかの形で応援し続けたい。

(中部支社・伊藤稔)

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東日本大震災から10年

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