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岩手之誇2023【ほまれるぽ いわての3世界遺産】 01 御所野遺跡(一戸町) 北海道・北東北の縄文遺跡群

御所野縄文公園に復元された土屋根住居。維持と保存のため週に4回炉に火を焚き、建物を煙でいぶす作業が行われている
平和で持続可能に生きた縄文は今こそ新しい
▲御所野縄文公園内「中央ムラ」に保存されている配石遺構と、周囲に復元された掘立柱建物。中央ムラの中心が墓地となっている
御所野遺跡の大発見 屋根に土がのっていた
▲「きききのつりはし」は、駐車場と御所野縄文公園を結ぶ屋根付きの木造歩道橋

 ゆるやかにカーブする屋根つき吊り橋には、「きききのつりはし」というふしぎな名前がついている。一戸町の御所野縄文公園に至る、全長百二十六メートルの通路だ。足を踏み入れると、ダークな木材と窓からの採光のコントラストが、太古のまつりを連想させた。足もとの遠くには縄文公園の水場や白い花が見え、数千年前へと向かう予感が少しずつ高まっていく。

 「縄文時代が好き」と言うと、ちょっと間の抜けた空気になる。この時代が持たれている「原始的」というイメージのせいだろうか。だが、それは誤解だと思っている。縄文土器ひとつ取っても、人々は高い技術と洗練された美意識を持っていたことがうかがえる。そして、そこに宿る誰かの深いまなざしを感じて息を呑んでしまう。とは言え、縄文に惹かれるのは「別世界への憧れ」に近い感情が含まれている気もする。土の中から出てくるこの時代のことを考えれば考えるほど、その姿はぼやけていく。

 吊り橋の先に建つ博物館では、学芸員の鈴木雪野さんが迎えてくれた。周辺の御所野遺跡は、五千年~四千二百年前の縄文時代中期後半、八百年にわたって営まれた大規模なムラの跡。共通のネットワークを持っていたとみられる「北海道・北東北の縄文遺跡群」の一つに数えられている。

▲御所野縄文公園内の配石遺構を見学する筆者(右)と、説明する学芸員の鈴木さん。配石遺構の周辺にはたくさんの穴があり、墓穴と考えられている

 古くから土器のかけらが落ちていたこの地で、工業団地造成にともなう事前発掘調査がおこなわれたのが一九八九年。その後、この台地一帯から続々と建物跡や配石遺構(並べられた石)が見つかり、二〇〇二年には工業団地にかわって縄文公園がオープンした。

 御所野遺跡での大発見は、なんと言っても「土屋根の竪穴建物」だろう。焼失した建物跡が見つかり、詳しく調べたところ、当時の屋根に土がのっていたことがわかったのだ。現在、縄文公園内に復元された竪穴住居の多くが、その知見をもとに土で覆われている。

 一九九九年には、復元した土屋根の住居をあえて燃やす実験がおこなわれた。すると、湿度が高く、酸素も遮断された住居はなかなか燃えない。たきぎをどんどん入れなければならないので、火の不始末などの失火が原因ではなかったようだ。アイヌの人々に伝わる「イエ送り」に似た、葬送儀礼の一つではないかと推定される。

 このように実証的な研究方法を「実験考古学」といい、御所野では特に力を入れている。シナノキ(マダ)の樹皮から繊維を採取して縄をなうことや、石斧を使って建物に使うクリの木を伐採する実験もおこなわれた。その木も、御所野ムラの人々は建材用と食用とで分けて育てていたらしい。縄文時代の人々に寄り添うことで、少しずつその姿が見えてきている。

まつりの広場の中心に 山から運んだ花崗岩

 縄文公園は、雨上がりの清らかな香りで満たされていた。近くからキジの声が聞こえる。柔らかい土と緑を踏みながら「東ムラ」に歩くと、住居跡などとみられる五棟が復元されていて、その一つにお邪魔してみた。

▲御所野縄文博物館の第1展示室。ガラス張りの床下に焼失建物跡を展示、発掘状況から復元工程までを映像で紹介している

 半地下で土屋根のためか、中は意外と広く見える。手前の炉では週四回火が焚かれているといい、まだあたたかく、煙の匂いが残る。そのおかげで、どっしりとした柱は黒光りしていて、五千年前から変わらず人が住んでいるのでは、とすら思えてくる。きっと夏は涼しく、冬はあたたかいだろう。御所野遺跡の建物跡は八百棟以上と予想されているが、同時期に存在したのは十数棟。百人ほどの規模だったとみられている。

 ここからも、少し先にある中央ムラからも、西側におわんを伏せたような茂谷山(もやのやま)が見える。この山の花崗岩を、御所野の人々は川さえ越えて運び込み、中央ムラに置いた。配石遺構は広場を中心に輪を描くように造られ、さらにその周囲には掘立柱建物と、広場を造成する際に盛り上げられた土とがある(盛土遺構)。ここでは、先祖崇拝などのまつりがおこなわれたようだ。掘立柱建物は、死者を一定期間安置してから埋葬する、古代の「殯(もがり)」を思い起こさせる。

 このような行事は、縄文の人々にとっても大きな意味をもっていたらしい。縄文時代後期、気候が寒くなってきたことにより、御所野の人々は周辺に分散して生活しはじめる。きっとそのほうが食糧面などで暮らしやすかったのだろう。その後も広場に集まってまつりをおこなっていたと考えられている。

 以降は北海道・北東北では配石遺構をさらに大きくしたような「環状列石(ストーンサークル)」が現れる。散ってしまった人々の連帯感を維持するため、より大きなシンボルが必要になったのかもしれない。

▲上空から見た御所野縄文博物館周辺の様子。博物館も竪穴建物にちなんで土屋根にしている
景色を見つめてみよう 縄文は私たちの中に

 「御所野が特別なわけではありません」と、御所野縄文博物館の館長、高田和徳さんは言う。岩手県内にある縄文時代の遺跡は、約八千。県土の広さを差し引いても日本最大の規模だ。じつは、岩手は縄文文化最盛地なのだ。

 縄文の人々は、米など特定の作物に頼らずに生きた。その特徴は、多様性・季節性・流動性・対応能力にある。悪天候などで食物のどれかが採れなくても、ほかのものがある。春がだめでも夏には別のものがある。さらには交易ネットワークを使い、山や海を越え、北海道や沖縄の産品すら手に入れることができる。今なら「リスク分散」と言えるかもしれない、そういう軽やかさがあった。一昔前は縄文といえば、「停滞」「野蛮」「後進的」などの負のイメージが強かったが、それは稲作中心の考えによる一つの見方に過ぎない。

▲(左)クリは食糧か建材用かで育て方を変えていた(中央)御所野縄文公園内で育てられているトチノキ。縄文人はあくを抜いて食べる方法を知っていた(右)クルミの木の実は食糧としていた。樹皮も利用していたかもしれない
▲(左)円筒式土器:北海道南部から東北北部にかけて分布する縄文時代中期の土器で、口縁に突起が4カ所あり、円筒形をしている(右)大木式土器:東北地方を中心に分布する縄文時代中期の土器で、渦巻きの文様が特徴

 縄文の人たちは、「土の中のもの」をよく見ていたという。地形や石の性質、変化に富む水脈、山菜が採れる場所。それらは、私たちの親や祖父母がしていたことと、なんら変わらない。縄文は地中深くにも、はるか遠くの時代に置き去られたものでもない。季節の移り変わりと暮らしを見つめることそのものが、縄文から続く営みなのだ。

 粘土で土器を作る際、まわりのものがくっついたり、底に敷いていた葉や敷物の跡が残ったりすることがある(圧痕(あっこん))。御所野遺跡から出土した土器の圧痕の中に、スズタケと考えられる植物の編み目が見つかった。それは現在「鳥越の竹細工」として知られる、一戸町の特産品とよく似ている。もしかして、これは五千年以上続く伝統工芸かもしれない。新潟県十日町市でも、縄文時代の編み布「アンギン」が近代まで作られていたことが確認されている。

▲(左)御所野遺跡のシンボルとして、「羽付き縄文人」の通称で親しまれている人が描かれた土器のかけら(右)一戸町内の蒔前遺跡から出土の鼻曲り土面(国重要文化財)。祭祀に用いられたと考えられている

 御所野縄文公園では、裏手に「縄文の森」を整備している。自然に関わり、時には手を加え、季節ごと、年ごとに循環させていく。言葉を超えて残る体験的な理解のために。

 先に書いた縄文の負のイメージは、しばしば自虐的に「岩手」に置き換えられる。縄文の豊かさ、ポテンシャルにいち早く気づいたのは、海外の人たちだったそうだ。視点が変われば景色も変わる。慣れ親しんだ川のせせらぎ、緑や土の匂いの尊さを、私たちはまだ知らないだけかもしれない。

 

 

column 旅のしおり 見た目は木だけど、石?--------------

 噴火で樹木が火山灰に覆われ、長い年月をかけ二酸化ケイ素(シリカ)に置き換わった石が珪化木(けいかぼく)。馬淵川やその支流の根反川沿いで見られ、御所野遺跡で出土する石器の35%に用いられている。このふしぎな石に、きっと5千年前の人も魅了されたことだろう。

momottoメモ

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