岩手之誇2023【ほまれるぽ いわての3世界遺産】 02 平泉(平泉町) 平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群
奥州藤原氏(平泉藤原氏とも)が十二世紀に百年間の栄華を築いた都市、平泉。初代清衡は前九年合戦、後三年合戦と、たび重なる戦を生き延び、現在でいう東北地方のほぼ中央部にあたるこの場所へ拠点をつくった。そこには、争いのない世界―浄らかな仏国土(浄土)への強い願いがあったという。
「夏草や兵どもが夢のあと」―松尾芭蕉のこの句を知らない人はいないだろう。かつて、十万とも言われる人が住んだ平泉の繁栄を、青々と草が茂る遺跡と対比することで偲んでいる。鎌倉で政権を握った源頼朝により四代泰衡が滅ぼされ、芭蕉が訪れるまでちょうど五百年。かつての栄華を偲びながら、俳聖はその奥になにかを見つめていた。奥州藤原氏時代から変わらない中尊寺金色堂を、「五月雨の降り残してや光堂」と、美しい名で呼ぶ。授業でこれらの句を習ってから、私の中の平泉には「滅びと輝き」という相反するふしぎなイメージが残った。
ゆったり流れる北上川の近くに、岩手県立平泉世界遺産ガイダンスセンターがある。隣接する奥州藤原氏の居館・政庁跡(推定)、「柳之御所遺跡」の資料館も兼ねており、九百年前には「平泉館(ひらいずみのたち)」と呼ばれた遺跡を守るように建っている。
館内では、世界遺産や平泉にまつわる事柄を、多くの遺物とともに紹介している。中国からもたらされた陶磁器類や、砂金・馬など、平泉の繁栄を支えた数々の産品。北上川水運を通じ、平泉は広い世界とつながっていた。
「つながり」といえば、清衡創建とみられるこの館は、一・五キロ先にある中尊寺の正面に向けて建っていたという。そしてこの館から、また三代秀衡が建立した無量光院からも、春秋の彼岸のころに信仰の山とされた金鶏山を仰ぐと、山頂付近に夕日が見える。ポイントは、「西を仰ぐ」ということだ。西にはすなわち浄土がある。平泉のまちをつくるうえで、「祈り」が欠かせなかったようなのだ。
展示室からロビーに戻ると、西に向けて全面ガラス張りの景色が広がった。柳之御所遺跡は史跡公園として整備されており、その向こうの空がずいぶんと広く見える。平泉町内や中尊寺があるという関山(かんざん)もよく見渡せた。職員の方によると、ここは現在でも空気が澄んでいて、星座や夕日がとてもきれいなのだという。写真を見せてもらうと、絵巻の中のようにたなびく雲へ、山あいに沈む夕日が黄金色に映っていた。
中尊寺とともに慈覚大師円仁によって創建された毛越寺。二代基衡が再興した際に造った浄土庭園が有名だが、実際に訪れてみてその広さに驚いた。緑の風景に平安時代を偲ばせる「大泉が池」が調和している。僧侶の南洞法玲さんによると、ここから眺める夕日も素晴らしいという。思えば、無量光院しかり、観自在王院しかり、平泉の主要遺跡には「水」の存在が欠かせない。当時の主流スタイルだっただけではなく、信仰も繫栄も支えられる豊かな水源があったのだろう。当時からと思われる湧き水は、現在水屋に引かれている。
夕日も水も変わらずここにある。私たちが見ている風景は、過去と確かに地続きなのだ。
中尊寺金色堂は、二〇二四年に建立九百年の節目を迎える。僧侶の破石晋照さんと歩いた。
清衡は、母が蝦夷、父が京の藤原氏出身という出自のため、人種や血統などについての考えが深かったのでは、というお話を伺った。そして、戦で亡くなった人のみならず、あらゆる命に同情を寄せ、極楽に導きたかったのだと。
金色堂は厳かで、美しい。それだけではなく、四代の墓所ということもあるが、自然に手を合わせたくなる気配に満ちている。お参りのあと、破石さんが言った。
「同じ祈りを、清衡も芭蕉も、そして名も知らぬ何百万の人々がおこなってきたと考えるとき、歴史は点ではなくつながった線であると実感します」
金色堂の奥―西側には、観音開きの扉が設置されており、外へ開けられる仕掛けになっているという。山ぎわに沈む夕日を見られるようにしたのだろうか。
街道から中尊寺に足を踏み入れた旅人は、ずらりと並ぶ寺塔や仏像に心を奪われたことだろう。その驚きと喜びはいかばかりか。そして、落日とともにまばゆく輝く金色堂。そこに人々は、きっと浄土を見た。
安土桃山時代、参詣する人々を描いた「平泉諸寺参詣曼荼羅図」にも、そのわくわく感と親しみが描かれている。美しい堂宇にお参りし、池や緑に親しんでお茶屋で休憩する私たちと、たくさんの人の心は重なっているはずだ。かつて、中尊寺には寺塔四十、禅坊(僧侶の宿舎)三百以上があったが、長い歳月のうちに火災などで失われてしまった。讃衡蔵(さんこうぞう)(宝物館)に遺されたあまたの仏像からは、本尊を守ろうとした僧侶たちの必死さが伝わってくる。金色堂に感じる荘厳さは、そうして降り積もっていった人々の祈りの姿なのかもしれない。
「夏草や」の句が与える廃墟的な印象のためか、私は漠然と、頼朝の攻撃により平泉は灰燼(かいじん)に帰したとばかり思い込んでいた。だが、泰衡は頼朝の軍勢に敗れて自邸に火を放ったものの、平泉を戦場にはしなかった。
曾祖父、祖父、父の偉大さに比べ、泰衡は義経を自害に追い込み、頼朝に敗れたことから、正直に言えばあまり評価は高くない。父秀衡の死後、時代の波頭に立たされた彼の瀬戸際の心は想像するしかないが、私はむしろ、きっとさんざん悩み抜いて行動した彼の人間らしさにも共感をおぼえてしまう。
そして藤原氏を滅ぼし、時として冷血な人間として語られる頼朝も、平泉の寺社を保護するよう命じた。さまざまな思惑があっただろうけれど、少なくとも彼にとってもこの地は守るべきものだった。
金色堂の近くにあったという大池の跡を眺めながら、清衡がつくろうとした都市の姿へ思いをめぐらせた。ここには「浄土」への強い意志が宿っている。大池はもうないけれど、泰衡とみられる首を納めた桶から一九五〇(昭和二十五)年に見つかったハスの種が芽吹き、この場所で育てられている。彼を悼む誰かの手によって供えられた花は、ゆかりの地に分けられ景色を彩る。
縦横無尽に交易をおこない、さまざまな出自の人が行き交う平泉は、歴史から消えた都市ではなかった。後世、義経は生き延びて北海道に渡ったという「義経北行伝説」が、岩手県沿岸部から北海道にかけて生まれた。金色堂の姿は「黄金の国ジパング」としてマルコ=ポーロの『東方見聞録』によりヨーロッパに紹介され、世界史を動かすことになる。この地は時代を超え、浄土にも、海の向こうにも、あらゆる世界へつながっている。
column 旅のしおり 五感で過去へ旅立とう--------------
平泉では、平安の香りを再現する「平泉のかをりプロジェクト」が活動中。イベントなどで香るしおりを作ることができる(要予約)。春夏秋冬、それぞれのイメージで調合されたお香は、穏やかに過去を偲ばせてくれる。日常から離れ、時にはこうして五感で想像をめぐらせるのもいい。