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岩手之誇2023【ほまれるぽ いわての3世界遺産】 03 橋野鉄鉱山(釜石市) 明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業

橋野鉄鉱山に残る「三番高炉」の石組み

 洋式高炉、と聞いて、ピンとくる人はどれだけいるだろうか。かく言う私も、全然わかっていなかった。なにやら昔、鉄を造っていたすごい施設らしい。いったい、なにがすごいのか? 山深いというその場所も、ミステリアスな霧に包まれているようでもある。そこに分け入れば、近現代を駆け抜けた人々の熱い足跡があった。

険しく深い山の中から 近代化への夜が明けた
鉄のまちは必然だった!? 釜石をつくった「ジオ」とは
▲橋野鉄鉱山の高炉場跡にある三番高炉。高炉場には南から一番、二番、三番と呼ばれる3基の高炉が確認されている。各高炉は30日~40日ごとに改修され年間250日の操業能力を持っていた
大島高任(1826―1901) 盛岡藩侍医の子として生まれる。釜石で1857年に洋式高炉による製鉄に成功し、「日本近代製鉄の父」と呼ばれる

 幕末。日本は西洋列強と対峙せざるをえなくなった。大砲を作れるほどに頑強で、大量の鉄が欲しい。そんな時勢の中、盛岡出身の大島高任が立ち上がった。

 釜石湾と釜石大観音を望む、釜石市立鉄の歴史館。解説してくれたのは、市世界遺産課の森一欽さんだ。岩手県の内陸と沿岸はかつて別々の島だった。約五億年前に誕生した南部北上帯(北上山地南部)はなんと赤道直下にあり、長い時間をかけて南北の北上帯と本州がぶつかり現在の形となった。釜石鉱山は一億二千万年前、マグマの貫入した熱によって日本最大の鉄鉱山になったという。

 マグマが冷えた花崗岩には多くの鉄が含まれるため、釜石などの沿岸地域では古くから良質な砂鉄に恵まれていた。砂鉄から鉄を造る「たたら製鉄」が盛んで、製鉄遺跡もたくさん残されている。

 江戸時代の一七二七(享保十二)年。甲子村大橋(現釜石市甲子町)で鉄鉱石が発見され、盛岡藩が調査した。この地には、製鉄に不可欠な木炭を供給するための森林や建築用の石材も豊富であることを大島は知り抜いていた。

▲「紙本両鉄鉱山御山内並高炉之図」に描かれた一番高炉の図。石組みの内側は、台村(現花巻市)産の耐火れんがで覆われていた

 はじめ大島は、水戸で「反射炉」という、熱を炉内のれんがに反射させて鉄を溶かし、大砲を作る施設を建てた。だが、原料が砂鉄では壊れやすい。鉄鉱石から大量の鉄を生産する「高炉」の必要性を痛感し、釜石で大橋高炉、次に橋野高炉を建造。高炉法を導入し、近代製鉄の礎を築いた。

 大島のすごいところは、洋書片手に独力で洋式高炉建造をこなしたことだ。江戸や長崎で学んだ経験もあり、もともと釜石で盛んだった「たたら製鉄」の道具からオリジナルのふいごを作るなど、工夫を重ねた。当時の人々はこのように西洋技術を日本式にアレンジし、開国からわずか五十年で近代化を達成した。

 一八八〇(明治十三)年には、官営釜石製鉄所の創業とともに、物資運搬用の釜石鉄道が日本で三番目の鉄道として運行を開始する。

 しかし、その後の製鉄所の歴史には、隆盛と困難とがめまぐるしく展開する。一八八二(明治十五)年、官営釜石製鉄所は事前調査の不備などにより閉鎖。田中長兵衛が民間資本で再開させたものの、操業は失敗の連続だった。試行錯誤の果て、四十九回目の挑戦でついに製鉄に成功。高炉の火は次代につながれた。

 田中製鉄所は発展し、官営八幡製鉄所建設にも貢献する。製鉄所や鉱山では多くの従業員が働き、鉱山附属病院や小学校も置かれた。大正時代の終わりから昭和の初めにかけて社会情勢が不安定さを増す中、組織改編しながら操業していた製鉄所は一九四五(昭和二十)年、二度の艦砲射撃を受ける。市街地の工場が被災したが、三年後に占領下で火入式がおこなわれ復興した。

 昭和四十年代からは時代に合わせて合理化の道をたどり、一九八九年に釜石の高炉は休止した。今はタイヤの補強材や線材など生活に欠かせない製品が釜石で作られている。一方、釜石鉱山は一九九三年に大規模な採掘を終えた。現在は研究用などに良質な鉄鉱石を生産するほか、坑道に湧き出る水を利用してミネラルウオーターが製造されている。

往時を偲ばせる 山中の別天地
▲山肌に張りつくように造られた釜石鉱山選鉱場跡。1992年に銅、93年に鉄鉱石の採掘が休止された後、選鉱場の施設は解体され現在は基礎のみが残っている

 国道二八三号―仙人峠道路から釜石に入る。ふいに、険しい山中にコンクリートの廃墟がパッと現れた。木々のあいだに浮かび上がるそれは、釜石鉱山にあった鉄鉱石の選鉱場の基礎部分だという。まるで別天地、隠れ里のようなふしぎな光景だった。

 大橋高炉から出発したこの場所は、選鉱場のほか、旧釜石鉱山事務所が残る。鉱山事務所には、世界各地から集められた鉄鉱石のサンプルが展示されている。

 外に出て、「あれが鉱山から掘り出された石ですよ」と森さんに遠くを指されて驚いた。山のよう、ではない。本当の山ができている。航空写真でもはっきり見えるらしい。

▲釜石鉱山周辺で石を拾う筆者。鉄鉱石や柘榴石探しについつい熱中

 近くの小山で石を拾ってみる。先に鉄鉱山が生まれる経緯で「貫入」と書いたが、石灰岩の割れ目などに高圧の熱水が入って溶かし、柘榴石(ガーネット)とともに鉄鉱石(釜石の場合は磁力を帯びる磁鉄鉱)が産生される。ところどころ錆色を浮かべた石の中に、赤いガーネットや銅がキラキラと光っていた。

 同じ北上山地から産出される砂金により、平泉の繁栄がもたらされたことも印象深い。御所野の人々が大切にしたのも花崗岩や珪化木であり、土の中のものであった。「釜石」や「平泉」、そして「岩手」だけに、この旅では大地がキーになっているようだ。

飢饉、戦争、震災を越え 製鉄の火はつながれた
▲自然豊かな橋野は石組みに使う花崗岩、鉄鉱石、木炭が周辺から調達でき、水にも恵まれた土地。鉄造りに適した場所だった

 現存する最古の洋式高炉跡である橋野高炉。釜石市街地から車で三十分ほど走った先で、思いがけず満開の桜並木に迎えられた。柔らかな新緑の中、三基の高炉跡は日射しを浴びていた。

▲「湯口」の前で鉄を取り出す人たちの様子。往時は鉱石採掘や搬送に500人、製炭に300人、高炉場に200人が働いていた

 操業時には、それぞれが純和風建屋で覆われていたそうだ。すぐ近くの斜面から切り出された花崗岩は、最大で五トンにもなる。ここにも「岩」の恩恵があった。

 試行錯誤しながら造られた高炉には個性が見られ、各部材がずれないよう、隣同士の岩に凸凹をほどこしたり、チキリ(蝶の形をした鉄の部材)で接合したり。レリーフが彫られた二番高炉は「おしゃれさん」らしい。細やかなこだわりから、職人の息づかいが感じられる。

 往時、ここで働いていた人は約千人。日本が天保の大飢饉で打撃を受けた直後のことで、釜石もその例外ではない。地域雇用は当時から命綱だったはずだ。高炉跡の地面に散らばる木炭や、炉底からよけられた鉄塊についたれんがの跡などを見ていると、まだぬくもりが残っていそうな気がする。

 両高炉跡には「山(さん)神社」がある。時として命の危険と隣り合わせの中、「山から恵みをいただく」という当時の人々の感謝と畏怖が、「近代化」という言葉には表れない「心」を物語っている。石碑の向こうでは、盛りを迎えた石割桜があるがままに咲いていた。

▲釜石駅前に立つ大島高任像と鉄のモニュメント。モニュメントの上部には、釜石製鉄所の高炉の火がともされている

 第二次世界大戦時、東北地方で唯一の製鉄所を擁した釜石は、先に述べたように二度も軍艦からの艦砲射撃を受けている。東日本大震災の爪痕も大きい。釜石駅前の「鉄のモニュメント」にともされた高炉の炎を見るにつけ、思いが静かに込み上げてくる。百五十年以上にわたってこの炎を燃やし続けることは、簡単ではなかったはずだ。多くの人が懸命につないできたバトンは、今日もこの街とともにある。

column 旅のしおり 山の恵みは今も--------------

 橋野・大橋鉄鉱山を擁する大峰山。現在、ここでは約600メートルの深さからミネラルウオータ―「仙人秘水」が採水されている。水は酒類や化粧品に姿を変えるほか、この水を利用して水力発電までおこなわれていて、今も続く山の恵みを感じられる。

旅を終えて

 縄文から近代まで。見えるもの、見えないもの、有形無形たくさんの過去に触れた。驚くほど、各地でそれぞれの時代の人の存在を感じることができた。そこに通ずるのは、「土地とともに、よりよく生きるための心」とでも言おうか。先人たちはじつに深くそのことを理解し、実践していた。寒さや自然の厳しさに耐えながらも、土地から得られる恵みを知る岩手の人たちの中に、その息吹は残っている。そしてきっと日本中、世界中にまだ見ぬ宝物は眠っているはずだ。

momottoメモ

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